ヨシコは、下校途中にある下水口が嫌いだった。
フタがされてなくて、とてもイヤな感じがする。しかも、真っ黒くて、汚くて、とても大きい穴なのだ。長い坂を下った辺りにあったので、お母さんがいつも危険だと怒っていた。
その大きな穴をヨシコは覗いていると、一歩、また一歩と自然に近寄ってしまう。なぜか、足が止まらない。どうして、そんな事をしてしまうのか自分でも分からなかった。ただ、その大きな穴を覗いていると、時折、何かが通り抜けているような気がするのだ。流されていく腐った葉の塊のように黒くて、濡れてて、ぬらぬらと光っている、何か。それを見掛けると、ジッとしていられない不安な気持ちになるけど、ヨシコは穴を覗かずにはいられなくなってしまうのだった。
ダメだと分かっていても、止められなかった。
坂下にある大きな下水口のことを友達は、ヌケヌケサン、と呼んでいる。たぶん、みんなで嘲笑って怖いという気持ちを隠そうとしていたのかも知れない。それが何となく分かっていたヨシコは、できる限り下水口の近くを歩かないようにしていた。学校の帰り道は気をつけて道の真ん中を歩くし、親と出かける時でもギュッと手を握りしめてソッチに行かないようにしていた。
やっぱり、一生近寄ってはいけない、そうヨシコは思った。
それは、ある寒い日だった。
母親から夜から天気が崩れると登校前に注意されていたのだが、学校の用事で下校が遅くなってしまったのだった。ヨシコが慌てて正門に出た時には、外は真っ暗、帰り道を遮るように空から沢山の雨が降り注いでいた。
ごぉうごぉう、と風が唸りを上げる。
ぴしゃーく、と雷が吼える。
ひゅおんひゅおん、と送電線が踊っている。
ただ、そんなのヨシコは怖くなかった。どんな音が鳴ろうとも気にもせず、土砂降りの中を走り出していた。このぐらいの雨なんかへっちゃらだった。
きっと帰ったらお母さんがお風呂を沸かしてくれている。
直ぐに濡れた服を脱ぎ捨て湯に飛び込めばいいのだ。
家に向かってヨシコは走り続けた。
一応、ランドセルの中に折りたたみ傘は入れてあったが、こんな強風の中で使うと壊れてしまうから止めよう、そうヨシコは考えていた。親に何度も頼んで買って貰ったお気に入りの傘なのだ。こんな日に使ってやるものか、そうヨシコは思った。
ヨシコの足がピタッと止まったのは、例の所まで来た時だった。
あのヌケヌケサンが怒ってる、そう思ってしまった。
大きな穴に大量の雨水が流れ込んでおり、ずぉおお、という化け物みたいな音を立てているのだ。ゴミ袋やバケツや動物の死骸まで、全てのモノを飲み込んでいる。もし、そこに間違って落っこちてしまったら、何処まで流されてしまうのだろうか、そう思ったヨシコは唾を飲み込んでいた。今まで服が雨で濡れていても平気だったのに、なぜか急にズッシリとした重みが感じられる。ずっと走ってきたから息は上がってるし、はぁはぁと吐いている呼吸は荒いのに寒くなってきた。
でも、このままじゃ家に帰れない。
そう思ったヨシコは走り出した。ヌケヌケサンの反対の道側を全力で駆け出したのだ。もう無我夢中だった。本当なら細い路地の手前では一度停止しなければならないのに、そのまま突っ切っていった。
もし止まったらどうなるのか。
その先を考えるだけでヨシコは恐ろしかった。
だから、いつも以上の速度で走った。
―――それがいけなかったのだろう。
ヨシコは派手に転んでしまったのだ。膝から崩れるように、ドスンという音を立てて倒れ込んでしまったのだ。ああ、直ぐに立ち上がらなきゃ、そう考えたのだが、大量の雨水がヨシコの体を坂下まで押し流そうとしてきたのだ。
「きゃあああああ!」
倒れた痛みを感じる暇もなく、ヨシコは必死に叫んだ。
ただ、本能が呼びかけてきたのか、手足だけは懸命に動かしていた。何かに掴まろうとした。地面に爪を立てようとした。足で踏ん張ろうとした。でも、全て油のように滑ってダメだった。どうしても止まれない。坂の上から下まで滑ってしまうのだ。
その先には怒ったヌケヌケサンが大きな口を開けて待っていた。
まるで糸の束のような太い濁流が全てを飲み込んでいる。
その光景を見てヨシコの耳から全ての音が消えた。
何も聞こえなくなった。
目から色が消える。
体が重い。
あぁ。
ダメだ。
そう思ったヨシコは、急に手足をだらしなく投げ出していた。そしてズリズリと坂を滑り落ちていったのだ。灰色の空から落ちてくる雨粒を顔で受け止めていると涙が溢れている。それは止まらず、もう何で濡れているのか分からなくなっていた。
ヨシコは何となく確信していた。
もうダメなのだ。
どんなに逆らった所で私はヌケヌケサンに食べられてしまう。
どうしようもない。
子供の私が勝てるような奴じゃないよ。
あれは化け物なんだから。
全てを受け入れるようにヨシコは体から自然と力が抜けていった。
―――それが良かったのだろう。
体を浮かさずにいる事で地面との摩擦力が増し、背負っていたランドセルの一点に体重を預けたので抵抗力が強まった。雨水と一緒に流れていたヨシコが、坂の途中で止まったのだ。体は擦り傷だらけで痛し、スカートはボロボロだし、もう少しでヌケヌケサンに食べられそうな位置まで落ちてきてしまった。
だが、それでもヨシコは助かったのだ。
「うううう」
止まった、そう感じたヨシコはもっと泣いてしまった。立ち上がることもせず、もっと涙を流していた。ヨシコは、もう本当にダメかと思ったのだ。もう死んでしまうと本気で諦めたのだ。立ち向かうのが怖くて、分からないから怖くて、結果を知ってしまうのが怖かったから、全てを受け入れようとした。
その方が楽だった。
いま考えると、そんな考えをしてしまった自分が怖かった。
簡単に諦めてしまった自分が怖かった。
何より、そんな弱い自分がイヤだった。
「くそ」
苛立ったようにヨシコは涙を拭った。
イヤだった。
負けっ放しは。
こんな情け無いままの自分なんか。
いつまでも俯いていなきゃいけないのだってイヤだった。
だって、悔しいじゃないか。
そう考えたヨシコの目に、光りが戻っていた。
いつだって頑張るしかない。
ヌケヌケサンなんか怖くないさ。
「……え」
弱さを受け入れた上で決意したヨシコが立ち上がろうとした時、坂の上から大量の落ち葉が流れてきたのだ。赤子のような落ち葉の塊が、ずるる、と滑り落ちてきていた。
そして、ストンと落ちてしまう。
怒っているヌケヌケサンの大きな口へ、ヨシコも一緒に―――。