ラリー、やろうぜ! 第一章

著 : 中村 一朗

C.柳沢峠へ


 土曜の夜とは言え、さすがに甲州街道はそれなりの交通量がある。
 ワゴン車はそのリズムに乗った速度だ。その後に続く“野良猫ランサー”も、比較的快適な走行になる。服部の足への付加も大したことはない様子。
 午前一時四十三分。
 大月で国道を逸れて、県道へ入る。
 道は狭くなり、センターラインも消えた。
 やがて、僕の携帯電話が鳴った。
「はい」と、僕。松尾さんからだ。
「しばらくしたら、車間距離一定ね。出来れば、10メートル程度で走れって、言ってる」
「解りました。伝えます」
 車間距離10mはとても短い。
 ブレーキを踏むタイミングを少し間違えれば、簡単にぶつかってしまう。
 それでも服部は、出来るだけ間隔を詰めた。
 まばらな古い住宅街を抜けると道は少し広くなり、国道139号線の標識が現れた。
 とても国道とは思えないその道をしばらく走ると、新しいダムが現れた。
 それを迂回してトンネルを幾つか抜けたら、道は極端に狭くなった。
 ふいに、前走するワゴン車のスピードがグンッと上がる。
 あるいは、道が狭くなったからそう見えただけかもしれない。
 すぐに服部も2速にシフトダウンして速度を上げる。
 エンジンが唸りをあげ、ボディの振動が激しくなった。
 “野良猫ランサー”が咆哮している、と僕は思った。
「足、大丈夫?」
「大丈夫!もう、直った!?」
 ほんとかよ、と疑いながらスピードメーターを見る。
 意外にも、速度は60㎞/hを少し下回っている程度。
 だけど、真っ暗な夜の山道。
 頭上に覆いかぶさっている樹木は闇色のトンネル。
 空を包む雲は、月と星を覆い隠している。
 それらがヒュンヒュン流れていく風景は、とてもスリリングだ。
 いつのまにか、前走車との距離は少し開いている。
 直線で何とか追いついても、極端に狭くて急なコーナーを通り過ぎるたびに、車間はまた開いてしまう。
 それでも服部は、必死で追いすがっていく。
 服部の運転は、不慣れなために明らかにぎこちない。
 車間距離を保ち、走行ラインをトレースするなど、もう不可能だった。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
 僕は、前を行く“歩きウンコ”の走りに魅入られていた。
 コーナーの入り口、ブレーキランプが点くと同時。
 大きなボディのワゴン車の前輪が、沈み込むように逆方向に少し傾く。
 次の瞬間、ブレーキランプが消え、クンッ!という感じでワゴン車は斬り込むようにコーナーに入っていく。
 そして僕の視界から、フッと消える。
 レールの上を走っているような正確さと安定感。
 赤いワゴン車は生き物のしなやかさで、狭い峠道を上っていく。
 街中のどこでも見かけるオートマのワゴン車に命を吹き込んでいるのは、ラリードライバー四谷彰浩。
 このチャンピオンオヤジは、やはり只者ではなかったのだ。
 最後の左ヘアピンで大きく差を広げられ、その車間を詰められないまま頂上の駐車スペースに到着した。
 ワゴン車が停止し、その横に“野良猫”がこそこそと身を寄せた。
 先輩たちはペットボトルを手に車から降りてきた。
 少し遅れて、僕らも車を降りた。
 黒々と聳える彼方の夜の山並みと、外気の肌寒さが心地よかった。
「この車、普通のオートマなんですよね。あんなふうに動くなんて、知りませんでした」
 四谷先輩ははじめ、キョトンとした表情で僕の顔を見ていた。
 その二秒後、先輩の顔がハチャッと崩れた。
「…だっ、ろー!!ヒャッ!ヒャッ!そうなんだよ。わかったか?本当に、わかったか?」
 胸を張って笑う先輩の横顔を見ながら、やはり僕はこの人を尊敬するのはやめておこうと決めた。
 しかし先輩を見る服部の視線は熱い。少しだけ、悔しそうに熱い。
「ぜんぜん、ダメでした」と、服部。
「だっろー!あたりまえ!簡単に出来たら、オレの立場ないじゃん」
「でも、キャッシュラリーはビギナー戦だから、計算ラリーでしょ。ハイアベやSSの全開走行区間はないから、運転がヘタクソでも大丈夫なんですよね」
 僕の忌憚のない言葉に、服部がムッとしている。
 でも、大丈夫。服部は本当のことを言われて、根に持つような奴じゃない。
 案の定、直ぐにむくれ顔が苦笑いに変わった。
 ちなみに、この“ハイアベ”とか“SS”といった専門用語は、今夜、服部から仕入れたばかりの代物だ。
「それでも、アベ50(指示速度50㎞/h)程度は出すと思うよ。それに、さ…。な?」
 松尾さんが四谷先輩に目配せした。
 すると、四谷先輩の顔が露骨に歪んだ。実に表情が豊かだ。
「実は。キャッシュに、うちのジジイたちが出るって言ってやがんだよ。しかも、大勢で」
「えっ。先輩のチームって、“Jリーグ”の方たちがですか?」
 服部が少し驚いたように問いかけた。
「ああ。そうなんだよ。で、おれと松尾が、まかない係で呼び出されてるのよね~」
 僕は首をかしげた。
「“Jリーグ”って、サッカーか何かが関係してるんですか?」
「ばーか!“ムサシノJリーグ”のことだ」
 服部がつまらない優越感をひけらかす。
 ますます解らなくなった僕に、松尾さんが解説してくれた。
 国内の公式なラリーでは、最高峰は全日本選手権。
 その下に北海道や東北シリーズなどのブロックに分けられた地区選手権があり、更にその下に幾つかの地方を舞台にする県戦シリーズが組まれているという。
 東京近郊の県戦でもある武蔵野ラリーシリーズには、ビギナー戦と本戦の2つがある。
 ビギナー戦は基本的に計算ラリー。
 それなりには走らせるが、排気量によるクラス分けもない。
 一方の武蔵野シリーズ本戦は、多少のゲーム(計算ラリー)的要素を含む速い者勝ちのスポーツラリー。
 関東一円の林道を舞台に、各エリアのスペシャリスト同士が競い合う。
 どちらも年間6、7戦程度のシリーズイベントが組まれていて、ポイント制による集計で年末にシリーズチャンピオンが決定する。
 昔は、チャンピオンになると地区戦や全日本戦の選手権にステップアップする縦型のピラミッド構造になっていたらしいが、不況の今では、チャンピオンになってもステップアップなどせずに県戦に居残るドライバーが多い。
 そして、出てくる若い芽の前に高い壁になって立ちふさがるという。
 早い話が弱いものいじめですね、と言ったら怒られた。
 そして10年前。
 武蔵野シリーズチャンピオンと上位入賞者たちが創設したのが、“ムサシノJリーグ”。
「何で、そんな“いじめっ子”チームを創ったんですか?」と、不思議に思って聞いた。
 本来、モータースポーツはチーム活動が原則だと、ライセンス講習会で言っていた。
 だから、シリーズ争いするようなクルーなら元々どこかのチームに所属している筈だ。
「何となく。シリーズ表彰式の宴会の勢いで」と、四谷先輩が目を細めた。「ほら。酒の勢いで子どもができちゃうみたいなもの、だったのよね~」
 各メンバーは、複数のチームに所属していても特に問題はないらしい。
 実際、“Jリーグ”メンバーの半数以上が、別のチームの会長職にあるという。
 イメージは、ヤクザの親分チームみたいなものだ。
「ちなみに、“Jリーグ”の“J”はジジイの“J”。ジャパンじゃないよ」
 と、松尾さんが教えてくれた。
 つまりは、武蔵野シリーズの長老会ってことなのだ。
「でも、何で“Jリーグ”がビギナー戦に出てくるんですか」
 知っている話に退屈した服部が口を挟んだ。
「やっぱ、何となく。この前の武蔵野の本戦で、そんな話になっちゃったのよね~」
「まあ、ビギナー戦と言っても、エキスパートクラスだ。ジジイたちが出るの、そっちだし。フレッシュマンクラスの君たちと競うことはないよ」
 ビギナーなのに、エキスパート。
 何となく、矛盾しているように感じる。
「歳、いくつなんですか?“Jリーグ”の人たちって」と、僕。
「40から60ぐらい。おれらなんか、まだバリバリの若手」
 四谷先輩が、ヒャッ、ヒャッ、と笑った。
「でも、先輩はドライバーとしてはエース格だったんでしょ?シリーズチャンプだし」
 服部が妙に真剣な声で尋ねた。
 先輩への敬意というよりも、峠の走り屋としてのプライド。
 “Jリーグ”のエースに敗北したのなら、素直に仕方がないと思えるのだろう。
 再び、四谷先輩はキョトン顔。今度は笑わず、やがて少し顔をしかめた。
「…いやあ。チャンピオンは一回だけだし。…それに、何だ、その。…まあ、いいや!」
 歯切れの悪い返事に、服部は不満そうだった。
 四谷先輩の走りは本当にスゴいんだ!と、服部はここに来る途中も繰り返していた。
 何度か横に乗せてもらい、それで“野良猫”を買う決意をしたのだ、と。
 でも、僕はまだ、“野良猫”の本当の底力を知らない。
「四谷先輩。一度、ランサーの横に乗せていただけませんか」
 服部をちらりと見ると、小さく頷いている。
「すいません、先輩。おれからも頼みます」
「そう?ランサーはもうおまえの車だし、おまえがそう言うんならいいよ」
 四谷先輩はさっさとランサーに乗り込んだ。
 すぐに自分の好みのポジションに座席の位置を合わせている。
 上背や腕の長さは服部と同じくらいなのに、座席のポジションはずっと前。
 ほとんど、ハンドルを抱え込むような位置だ。
 横から見ると、ひどく窮屈そうだ。
「一応、ここ国道だから、上りだけね。下りは、ゆっくりだよ」
 ぜんぜん、ゆっくりなどではなかった。
 発進すると、直ぐにギアを次々にシフトアップさせていく。
 コーナーごとにギアを使い分けながら、久しぶりのランサーと対話するように、服部とは比較にならない、とんでない速度域で次々にコーナーを駆け抜けていった。
 前走車がいないので、大口径のフォグランプもオンの状態。
 夜の道路は眩しいほどの輝きを返し、まるで、古いモノクロ映画のようだ。
 それでも、四谷先輩にとっては“ゆっくり”なのかもしれない。
 タコメーターを盗み見ると、エンジンの回転数は3000から4000回転程度。
 常に高めのギアを選択している。
 5速に入れているセクションさえあった。
 ハンドルやアクセル操作にはゆとりがあり、すっ飛んでいく周囲の景色とは裏腹だ。服部の横で味合わされた、カクッ!としたブレーキによる沈み込みは全くない。
 フッ、と減速したときにはもう車は曲がり始めている。
 3キロほど下りたところで、Uターン。
「じゃ、出発ね―」と、気合の入らない掛け声で、四谷先輩は本格的に走り出した。
 ゆっくりした発進の直後に、強烈な加速G。
 一つ目のコーナーを通過したときから、車内の雰囲気がガラリと変わった。
 気合が抜けているどころではない。
 突然、頭の中で、何かが大爆発した。
 五感に叩き込まれる、爆音と、光と闇と、激しい振動と強烈な加減速!
 景色は連続性を失って、コマ送り映像にも感じられる。
 ちらりと覗いた四谷先輩の横顔が、仮面のように無表情になっていた。
 シートベルトで括りつけられた身体から伸びる手足が、それぞれが別の生き物のように自在に動いて、ハンドルとシフトギア、アクセル・ブレーキ・クラッチのそれぞれのペダルを的確に操作する。
 そのスピードは、出来の悪いCGの早送りだ。
 下りの時と異なり、Gは前後左右上下のあらゆる角度から僕に襲い掛かってくる。
 先ほどまで夜行獣のようだった“野良猫ランサー”は、凶暴な肉食獣に変じた。
 四つのタイヤは四肢だ。
 踏ん張り、蹴り上げ、時には路面を掻き毟る。
 技術のことはわからない。
 だが、車をねじ伏せようとする気迫は、空手の組み手試合のそれに重ねて理解できた。
 刹那の踏み込みで切り替わる攻守。
 拍子と合気は、運転の操作タイミングに類似する。
 瞬間の間合いで垣間見るのは、相手の幻影に写る自己の鏡像だ。
 アクセルを踏み続ける時、全知全霊を傾ける闘争心は空手とほとんど同じ類のもの。
 ラリードライビングは、武道に似ている。
 その時初めて、僕は直感的にそう実感した。


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