吸血鬼

著 : 秋山 恵

伝染



 エレナが目を覚ましたのは、眠りについてから2日後だった。

 悪臭で顔をしかめつつ、身体を起こした。身体中に臭いが染み込んでいそうだ。洗っても暫くは残るだろう。

 傷口は塞がったようだ。痛みは残っているが、普通に歩くことも出来そうである。ただし服が血で汚れているので、時間によってはまだ潜伏していた方が良い。

 エレナが腕時計を見ると、短針が2時を指していた。アナログ時計の為、昼か夜かが分からない。

 傷痕を押さえながらゆっくり立った。

 傷口は完全に塞がっているが、まだ痛む。

 動く度に、被弾していた箇所に、釘でも打ち付けられたような感覚があった。完治していないだけで、弾丸の呪術によるものではないだろう。

 痺れは消えている。

 治癒にかなり血を使ったようで、激しく喉が渇いていた。

 まだ理性は保てると思われた。だが、炎天下の中、汗だくになって歩いた後のような状態だ。

 手近なところで補充するべきだろうかと、暫くの間悩んだ。

 エレナは外の様子を見る事にし、ゆっくり移動をはじめた。

 左足に体重がかかると、傷が痛んだ。必然的に、体重をかけないよう、左足を引きずるように歩いた。


 出口に辿り着くまでに何匹かネズミを見かけた。

 悪食な吸血鬼であれば、まずネズミに手を出すであろう。動きがある度に鋭く目が追っていたが、プライドが許さなかった。

 ネズミを喰らう事が、ではない。

 無闇に喰い散らかすのは、高貴な吸血鬼の血筋を引くエレナには恥ずかしい事という意識がある。

 節操のない行動は慎みたかった。

 エレナは、延々と続く下水トンネルを歩き、幾つかのハシゴを上った。

 真冬だと言うのに、下水の中は暖かかった。

 無音の世界、狭く閉鎖された筒の中、小さな生き物の気配で溢れていた。

 小さな気配達はエレナの気配を感じ、あるものは逃げ出し、あるものは寄ってきた。

 頬に小さな生き物が張り付き、エレナを品定めをする。相手が何者であるか気が付くと逃げ出した。

 人が出入りするようなエリアに入り、警戒しつつ出口の扉に移動した。

 数分程歩くと金属製の扉があった。

 手をかけると、心が落ち着くような深夜の気配が、ドアノブを通じて感じられた。

 内鍵を開けてゆっくりと扉を開くと、新鮮な外の空気が隙間から流れ込んでくる。顔いっぱいに外の空気を浴びた。清流の流れに沿って泳ぐ川魚のような気分である。

 扉を開けきると、やはり外は夜だった。住みかの近隣の駅の近くにある、下水への出入り口だ。

 この周辺数駅は住宅が多く、夜は特に静かだ。駅はどれも古く、住みかの最寄り駅はカビでも生えていそうな雰囲気があった。

 あまりにも駅が古く、ひび割れた箇所もいくらか見られる。下水の臭いがする場所もある。

 エレナは、周りを気にしながら住みかへと歩き始めた。

 この深夜に、傷を庇いながらおかしな歩き方で歩いている若い女性というのも不自然である。

 出来れば誰にも会わずに帰りたい。

 地上に出てから、ヨタヨタと三十分程歩いた。

 自分名義で借りている部屋ではなく、最寄り駅から反対方向へ数分離れた場所にある廃屋に向かう。

 自分の部屋は、周辺にハンターが張っている可能性が捨てきれなかった。


 廃屋の入り口は完全に塞がれていた。建物体全体にツタが絡まっており、冬なので葉は枯れているが、鬱蒼とした雰囲気があった。

 エレナは建物の裏手に回り込んだ。塀と建物の間に木箱が積み上げられている。表からは見えないので、木箱が比較的新しい事に気付く者はそうそういないだろう。

 木箱は一見無造作に積んであるようだったが、手前の幾つかは動かす事が出来るようになっている。

 エレナは箱を引きずり出すと、建物に張り付けてあるベニヤ板をずらして中に入った。

 中は小綺麗に片付けてある。物はほとんどない。スポーツバッグとジュラルミンのケースが一つ、後は小さな冷蔵庫が置いてあった。

 電気も、どこからか引き込んであった。

 足音も殆んど立てずに入り、エレナは着ている物を脱ぎ捨てて真っ直ぐ風呂場へ入っていった。

 風呂場は、水だけは出るようになっていた。ガスは通っていない。完全に真水だったが、エレナは頭からシャワーを浴びた。

 真冬の水は冷たかったが、あまり寒くはなかった。

 吸血鬼になってからは寒暖に強くなっていたから、このような無理はよくやってのけた。

 乾いた血を洗い流すと、鏡で被弾箇所を確認した。

 塞がった傷口の内部が赤いのが見て取れた。

 完治まではもう少しかかりそうだ。周辺を撫で回していたが、うっかり強めに触ってしまい、エレナはうめき声をあげ、膝を付く。

 暫く身動きが取れなくなった。

 俯き、痛みに耐えるエレナへ、冷たいシャワーの水が降り注いだ。



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