吸血鬼

著 : 秋山 恵

遊撃



 数時間後、エレナはかび臭い自分の隠れ家の床の上に立っていた。

 つい最近ここで傷を癒したのが、何ヶ月も前のように感じられる。

 危険を顧みずにやってきたのは、保存してる最後の血液を取りに来る必要があったからだ。紗季が欲望に耐えられなくなった際にどうしても必要になるだろうから、これだけはどうにか持って帰りたかった。

 この保存された血液は全血冷蔵保存されたもので、保存期間は長くて35日程度。通常であれば21日程度になる。入手してから20日経っており、早ければもうすぐ駄目になってしまうだろう。

 使用期限が切れ、冷凍血液が使えなくなった後の紗季への対処はまだ考えていない。その辺りの不安に悩まされていた。

 冷蔵庫の扉を開けると、3パック程が入っていた。

 元々入手の簡単なものではない。今回被弾した時はこれがあったお陰で大事に至らずに済んだが、次は無いだろう。

 壮介に入手を頼む事が出来るかもしれない。だが、そう簡単なものではないだろうから、やはりこのタイミングで取りに来る必要はあった。

 エレナは、スポーツバッグの中に入っている保冷袋を取り出すと、保冷剤と共に血液のパックを詰め込み、持ってきたカバンに入れて外へ出た。

 ここへ戻ってくる事はあるのだろうか。裏側の穴から出てくると、ボロボロになった建物の姿を見つめた。積もりきった雪の重みで潰れるのではないだろうかとさえ感じられる。風が吹く度にギシギシと鳴っているようにも感じられた。

 隠れ家を後にすると、次は自分の住んでいた部屋に向かった。

 道は雪が降り積もり、足場が悪い。道の両サイドは車のタイヤが通ったであろう溝になっていたが、中心部分は踏み固められた雪の道になっている。タイヤ跡は水っぽく、そこに足を突っ込むと靴が水浸しになるので、中心を歩いた。踏み固められたとは言え、ヒールの踵は刺さる。

 数十メートル程行ったところで、大きな公園に差し掛かった。横切れば近道になるだろう。

 新雪を踏むのが心地良い。音を楽しみながら足早に、奥へ奥へと進んでいく。入り口の辺りには子供が遊んでいるのが見えたが、数分程歩くと人通りもなくなってきた。

 樹木が増え、遠くに建物が見えない場所に来ると森の中のようだ。昔住んでいたヨーロッパの森を、領主の娘であった頃の事を思い出す。

 雪化粧の森と猟犬、馬に跨った自分の髪が風によくなびいた。突風が止んだ瞬間に猟銃の引き金を引く時の感覚。乾いた火薬の破裂音と、走る獲物が体を崩して倒れる音。空気の香りは違うが、その雰囲気は近い。

 エレナは、見た目とは違い女らしくはなかった。

 エレナを吸血鬼にした男は、何に惹かれてエレナを仲間にしたのか。それは今もってエレナにとって疑問だった。

 聞きたくても、もう会う事は出来ない。

 エレナ自身の手で殺したのだ。

 流れ者だったその吸血鬼は、エレナを吸血鬼にした後、村の若い娘を選んでは食い殺していた。

 その現場にたまたま居合わせたエレナは、迷う事なく冷静に相手の首を飛ばした。剣術には長けていたが、人の形をしたものを斬ったのは初めてだった。何も感じず、自分には血も涙もない冷徹な人間なのだと実感した。

 それから数日後、若いエレナは乾きに苦しむ事になる。流れ者の吸血鬼の首から噴水のように飛び散る血が、何度も夢の中で繰り返された。血に対する欲望が日増しに大きく、次第に乾きへと変わっていった。

 最初は乾きの苦しみに耐えるつもりだったが、気が付くと、夜毎村人を襲っていた。何とか殺しはしなかったものの、村人は疲弊し、恐れ、少しずつ土地を離れていった。

 ある晩進入した農家では、6歳になった程度の少年に手を出した。まだ小さく、堪えられなかったのだろう。夢中になり気が付かなかったのもある。すぐに絶命した。

 我に返り、冷たくなった少年の亡骸を抱きしめて泣いていた事が、遥か遠くの記憶にも関わらず今もまだ昨日の事のように思い出される。唇を噛み締めた。

 森のような園内を歩き、真ん中辺りまで来たところで、エレナは知った気配を感じた。

 本当に、ただの偶然だった。

 たった二度、しかもほんの少しの間巡り会っただけの相手だったが、間違える事は無い。

 “虎”が立っていた。



top