吸血鬼

著 : 秋山 恵

遊撃



 遼二が公園に来たのは昼過ぎ。

 ただの散歩のつもりだった。

 夢を見ているのか、奇跡でも起こったのか、求めた相手がそこに立っている。気温等とは関係なく、鳥肌が立った。

 恐怖による震えは無い。相手の事を理解出来たからだろう。

 目の前に居る吸血鬼は、遼二の事を殺さない。二度もチャンスがあったにも関わらず。一度は発砲までしているにも関わらず。

「よぉ」

 相手は返事をしなかった。

 当たり前だが、軽い挨拶をしても警戒心は溶けないようだ。

 遼二は殺気を放たない。ただ、コートの中に隠し持つバタフライナイフは、いつでも取り出せるように握り締め、一歩近寄る。

 吸血鬼は一歩下がった。その時ヒールの踵が、雪に埋もれたコーヒーの缶を踏んで体制を崩してしまい、小さく悲鳴を上げて尻餅を付く。

 すぐに立ち上がろうとするが、すぐに間合いを詰めた遼二の獲物が左肩に深く食い込んだ。痛みに体を斜めにしながら片手を付き、それでも右手で手刀を繰り出すが、遼二はナイフを引き抜き間合いの外に下がっていた。

 雪の上であるにも関わらず、動きが鋭い。埋まっていて見えないが、靴が特殊なのだろうか。雪の重さを考えると、それでも考えられない速さであった。

 ナイフが簡単に深く刺さった事、軽く抜けた事が不思議だったが、良く見るとナイフにストラップのような物が付いている。

 吸血鬼は左肩を押さえながら、殺気を向けてきた。

 遼二の背筋がゾクゾクとする。まるで、全身に小さな虫が動き回るようだ。

 次の攻撃は当たらないだろう。相手も本気になっている。

 ナイフを逆手に持ち直すと、次の一手を狙うように雪の上をジリジリと右に向けて回り込むように移動した。

 左手は無力化したから、多少は入りやすいように感じる。

 今更そんな事を言える状況ではなくなってしまっているが、自分は目の前の吸血鬼と話をしたかったのではないかと考えた。

 戦いの欲求が吸血鬼への興味を上回った事に、我ながら好き者だと反省する。

 振り続ける雪が顔に積もり始めた。

 互いの吐息は同じ間隔だ。

 一歩間合いを詰め、足元の雪を蹴り上げた。粉雪が舞う。その上で遼二はフェイントをかけた。吸血鬼はそれに反応し、後ろへ離れる。

「お前、名前は?」

 遼二の無表情の問いに、暫くして吸血鬼は口を開いた。

「・・・エレナ」

 そう答えると、ヒールを脱いだ。

 吸血鬼とは言えど、さすがに足が冷たい。この状態では、長時間は戦えないだろう。

 話をしている内に、左肩の傷口だけは塞がり始め、出血だけは止まった。まともに動かせるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。決着がつくまでには治らないだろう。

 エレナは油断していた。相手の動きがここまで良いとは、考えもしなかった。使っている道具の違いはあるだろうが、まさか立場が逆転するとは思ってもいなかった。

「そうか、エレナか。覚えておく」

 片腕が使い物にならないとは言え、遼二はエレナの隙が見付からない。突破は難しそうに感じられた。

「エレナ、聞きたい事がある」

 時間稼ぎになる。エレナはそれを考え、行動をせずに耳を傾けた。意識の半分は傷口へ集中している。

「お前は何故、前回の遭遇時に俺達を殺さなかった?今みたいなハンデが無ければ難しい事じゃなかったろう?」

 エレナは、相手のブーツに仕掛けがある事を認識した。どんな仕掛けがあるかは分からないが、今は不利な状況にあるのだろう。少しずつ、後ろへ下がる事にした。相手もそれに合わせて前進してくる。

「殺して何が解決出来るの?」

 距離が取れないから、エレナはカバンの中の拳銃を取り出す事が出来なかった。

 逆に、遼二はカバンの中に武器が入っている事を直感していたから、ある一定以内の距離を開けるつもりもなかった。

 カバンの膨らみのせいで、何が入っているかは想像も付かない。

「少なくとも、狙う相手を減らす事は出来るぞ」

「それは解決ではないでしょう。全てのハンターを駆逐するなんて事、私には無理だもの。そんな苦労、するつもりもないですし」

「ごもっとも」

 遼二が意を決して一気に距離を詰める。

 刃の先端がエレナの喉笛目掛けて突き出された。エレナは上体を反らしてその手を取ろうとするが、それを予知してか、刃が掴もうとした手に向けて振られている。

 手のひらが深々と裂かれた。

 エレナは足場が悪く、そのまま後ろに、仰向けに倒れこむ。このタイミングで遼二のみぞおちに力を込めて蹴りを入れた。分厚いゴムタイヤを蹴ったような感触があった。体勢が後ろのめりだった為、蹴りの威力と同じような威力で強かに背中を打ちつけ、少し咳き込む。

 遼二のナイフの扱い方は常人のそれではない。時間をかけて全身を切り裂かれる可能性もある。エレナは刻まれた自分の姿を想像し、久々に身震いをした。

 直感した通り“虎”は強い。もし同じ吸血鬼であれば、一方的な状態になったろうと考える。

「立てよ」

 遼二は数歩後ろに下がっており、ナイフを持った手を下ろした。腹部を押さえている。威力は殺されていたと思ったが、意外とダメージは大きいらしい。

 表情が大きく歪んでいた。

 エレナはエレナで、血が足りなくなりつつあるのを実感した。紗季に分けた辺りでかなり減っていたから、隠れ家で1パック飲んでおけば良かったと後悔する。

「俺はな、お前らに身近な人を殺されてる。今、教会のハンターをやってるなんて言うのは、多分復讐なんだろうな」

 遼二の視線は、エレナのサングラスの奥にある薄いブルーの瞳に向けられていた。

 最初から殺気を感じられなかったが、もしかすると挨拶代わりにナイフを向けたのかもしれない、エレナはそう感じた。

 危機感が多少薄らいでしまった。すると、左肩と右手のひらが痛み出す。血が足りないから、手のひらの出血はかなり意識しないと止まらないだろう。

 雪に赤い色が広がっていく。

「お前らを何人も殺ってきたよ。どいつもこいつも、悪魔染みてた。だがお前からはそれを感じない。何故だ?今だってそうだ、ここまでされて醜悪さの欠片も感じる事がない」

 遼二の額に汗が浮かんでいるように見えた。溶けた雪か、それとも腹部のダメージが大きい為に出たものか。

「どうでしょうね。長生きすると落ち着くんじゃないかしら?・・・人間と同じように」

 エレナはゆっくり立ち上がり、右手に意識を集中する。血の流れがピタリと止まった。

 カバンの中の拳銃は意識しない事にした。45口径のマグナムでは、当たれば命を奪ってしまう。最悪必要であると考えていたが、相手が自分を殺しに来たのではなく、何かを探りにきたと感じたから止める事にした。

「それじゃ分からねぇ・・・」

 遼二は乱れた呼吸を必死に整えようとしていた。

 勝負は付いたかもしれない。

「長く生きるとね、我慢も出来るようになるのよ。・・・ねぇ、あなた大丈夫?」

 自分で蹴りを入れておいて言うのもおかしいが、少し相手が心配になっていた。

「心配されるなんてな。ふん・・・、おかしな奴だ」

 口だけが笑っている。

 エレナは警戒を解いた。足に付いた雪を叩き落とし、ヒールを履く。それを見て遼二もナイフをしまった。

「行け。今だったらこのまま行かせてやれる」

 エレナの姿を眺めつつ、遼二は道を譲った。

 エレナはカバンを掛けなおし、頷きもせずに真っ直ぐに前を向いたまま歩きだす。綺麗に染まった赤毛が風に吹かれてなびいた。

 すれ違う時に高貴な香りがし、遼二の心が一瞬揺れる。

「エレナ、6日後に教会本部から選抜された8名が日本に来る。生き延びる事は出来るか?」

 突然呼び止められ、エレナは足を止めた。

 増員程度で今更驚く事はなかったが、本部の選抜メンバーという点に不安を感じた。四十年前、自分だけに向けて送られた10人の刺客を思い出す。

 人間相手に、ただ逃げる事しか出来なかった。

「どうかしらね。ただ・・・、ありがとう。助かります」

 ますます降りが激しくなる雪の中、エレナは次の目的地に向けて歩き出した。

 急がなくてはならない。いつ紗季の乾きが始まるかが分からないから。



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