棺の記憶

著 : 中村 一朗

ミラー:Vol.1


 焦燥感と高揚感。

 この二つは良く似ている、とミラー・クリスは思う。前者は不安、後者は期待という観念が化けた言葉だ。

 欲望という出発点から充足という終点に至るまでに歩む、主観時間の感情的理解。焦燥感と高揚感の正体は案外そんなものなのかも知れない、とミラーは思う。それらは時には愉快に、また時には不快に人の心をくすぐる。

 そして常に理性的判断を妨げる邪魔者だ、とも思う。

 しかし今は、身の内で猛るこの二つの感情を抑制しなければならない。

 執務室のデスクを前にするミラーは二三分毎に時計を覗き見ながら、大型モニターパネルに映し出される各種データを見守っている。

 同じ項目のチェックを何度も繰り返しながら。

 時刻は午前二時0九分。

 輸送船はすでに予定地点に到着しているが、運び屋たちからの連絡はない。

 彼らからの交信が途切れて三日が過ぎていたが、それでも船の位置は引き続き追跡できた。非常事態に備えて装着させた最新鋭のオートクルーズシステムの緊急プログラムに従って、船は既に目標ポイントに辿り着いている。

 ある程度予想した事態とはいえ、決して望ましい展開ではなかった。

 〃棺〃の発掘直後に発現したものと同じ力が船の中で起動していると考えて間違いない。それが運び屋たちを、恐らく、殺した。

 運び屋たちは前払いされた高額の報酬を受け取った時、代償に危険を覚悟するべきだったのだとミラーは考えている。だからその死を悼むつもりなどなかったが、新たな懸念が生まれていた。

 〃棺〃の力は今も船を支配しているのか。

 そしてもし棺の力が発動中なら、〃棺〃を回収に向かったスネイクと石郷涼子は任務を無事に果たし得るのか、と。

 船の乗組員が全員死亡しているなら、〃棺〃の力は再び眠りについている可能性が高い。かつて発掘現場で起きた最初の惨劇も、生贄の死と共に一時的に収束したものと推測されている。

 最初の発掘グループは研究者などではなく、ただの墓泥棒たちだった。しかし遺跡の中で〃棺〃を発見した直後に集団発狂し、互いに殺し合って五人全員が死亡した。五か月前、六月二日のことだった。

 ミラーの指示のもとにフリーピースが本格的な調査を始めたのはその後から。第一発見者たちの死は隠され、公の記録にはフリーピースの考古学協会が派遣した調査グループの九人が遺跡を発見したことになっている。後にその九人全員も精神に重度の障害を受けたが、その状況については詳細な報告がミラーの手元に残されている。

 発見直後に発狂した最初のケースと異なり、彼らはひと月程の調査期間のうちに徐々に精神を蝕まれていったらしい。調査開始から間もなく、地元で雇った迷信深い作業員たちの間で死んだ墓泥棒たちの噂が流れ始めた。

 やがて一週間後には遺跡の祟りを恐れた彼らは現場に出てこなくなり、作業は財団直属の研究スタッフたちだけの手で進行しなければならなくなった。

 そして七月十三日、第二の事件が起きた。

『あいつが、心を喰いに来る…』

 それが調査団のリーダーが最後に日誌に記した言葉だった。

 二度の悲劇から〃棺〃の脅威を認識した第三グループは、考古学者のみならず医療関係者、物理化学分野のエキスパートやエンジニアたちで構成された。無論その中にはミラー直属の異能力者たちもスタッフ警護のために参加していた。

 研究スタッフは二十四時間の監視下で、遺跡の中に〃棺〃を安置したまま二か月の時間をかけて万全の体制で挑んだ。まるで放射能汚染地域内での作業のように慎重に。しかしその間、〃棺〃は完全な沈黙を守り続け、結局は第三グループからは被害者は出なかった。通常の怪異を除いては。

 〃棺〃の全長は一、八メートル強。

 材質は金属かセラミックに似ているが、未知の化合物であるという。灰色の巨大な卵を押しつぶしたような細長い楕円形をした〃棺〃の内部の構造は完全に不明。超音波や電磁波をはじめとするあらゆる探査波を跳ね返してしまうためだ。緑灰色の滑らかな表面にはランダムな発光現象も時折認められた。微量ながらさまざまな高低周波ノイズや磁力線、更には重力波の放射さえ検出されていた。それどころか単純な計測さえあざ笑うように、全長や外周などのサイズや質量さえ微妙に変動させていることも確認された。

 研究は遅々として進まなかった。そうした中でも研究グループは〃棺〃の発する信号パターンから、その力の発動には何らかの存在が介在しているものと結論づけた。

 夢を見ている時のような擬似的な脳波を放射する、システム的解釈だけでは説明のつかない誰かの、あるいは何かの意志。

 しかもそいつは、〃棺〃の中に潜んでいるらしいという。

 この報告を受けて、ミラーは〃棺〃を本部に運ぶことを決断した。

 発見から三か月後、〃棺〃は発掘現場から搬送された。〃棺〃と〃棺〃を包む箱の中には各種センサー類が配置され、その外側には対放射線皮膜シールドが施されていた。

 ペルシャ湾で船積みにした時点では〃棺〃は何の力も発動していなかった。〃棺〃の力は消えてしまったのかも知れない、と疑ったこともあった。ところがそれが、何らかの事情によって再び目覚めてしまったらしい。

 そして運び屋たちは恐らく殺し合い、全員が死亡して三日が過ぎた。

 やはり近代科学による現代の“結界”は役に立たなかった。

 それなら〃棺〃の回収に向かったスネイクが同じ悲劇に遭遇する可能性も否定できない。石郷をオブザーバーとして派遣したのは正解だった。

 スネイクの安全を考慮してのことではない。彼らが〃棺〃の影響によって発狂するならそれも仕方がないとも思っている。その場合、不本意な事態ではある。だがその時、何が起きたのか正確に知っておきたかったのだ。錯乱状況にある被害者たちの精神トレースに対しては、石郷のキャラクターと特異能力は理想的なものだった。

 ミラーはこれまでに二度、石郷に仕事を依頼したことがある。彼女はいずれの場合も予想以上の成果を上げ、異能者グループの外部スタッフとしては異例の早さでリストの特A級にランクアップされた。

 精神感応能力者としては自分以上の能力があるものと評価していた。しかし能力以上にミラーが彼女に期待しているのはその精神的な強かさにある。

 一般に精神感応能力の高い者は神経症的な傾向を持つ者が多い。そうした中で、石郷涼子はその対局に位置する例外的存在であった。

 人の心は魔界そのものだ。その奥底に隠された陰惨な欲望や記憶は、時には接触した側の人格に崩壊を促す。しかし石郷は他者の如何なる悪夢にも不動の精神を保つ事が出来る。異能力者を怪物視するものもいるが、それは誤りだとミラーは思っている。が、石郷を怪物と呼ぶなら、ミラーは納得する。

 今回、ミラーは石郷に三度目の仕事を依頼した。

 棺の力を解析するために、その能力を貸してほしい、と丁重に。

 結局、彼女は破格の報酬を条件にミラーの依頼を受けた。しかしミラーが彼女に望むのは〃棺〃の内部に潜むものに接触する道筋を築くことであって、謎の解明ではない。このプロジェクトの中心にいるのはミラー自身であり、それ故に謎を解くのはあくまで自分でなければならないのだ。

 石郷の本来の仕事は本部の研究施設でのものだった。発掘現場とは比較にならない万全の準備と監視体制下で〃棺〃の中に潜む何かに接触を試みることにある。スネイクに同行させたのは、非常事態の勃発に備えての臨時措置に過ぎない。

 海岸で何が起きても、彼女ならきっとうまくやれるとミラーは信じた。もし彼女の手にあまるようなら、〃棺〃の中にいる何かと接触できる人物、即ち手段はこの地上には存在しないということになる。少なくとも、自分の手元には。

 時刻は現在、午前二時十五分。

 ミラーは石郷の車に連絡を入れたが、十二回コールしても彼女から返信はなかった。

  A ・ N ・S

 のモニター画面を呼び出し、石郷たちの車が目的地に向かって移動中であることを確認する。悪路に入ってからの先攻二台の平均時速は約五十二キロ。一台は吉岡の操る特殊車両。もう一台は石郷がワゴン車をドライブしていることは間違いない。約二キロ後方に先頭のものと同形式の特殊車両が二台。平均時速約四十三キロで追尾中。

 石郷と連絡が取れないことに苛立ちながらも、ミラーの思いは遺跡の棺へと再び回帰してゆく。あれこそ、自らの望みを託せる希望の箱だ。

 関係スタッフの間では『ノアの棺』で通っている。〃棺〃が納められていた石碑に記されていた人物名らしきサインからそう呼ばれている。記されていた文字は古代ラテン語。聖書の記述にある、古代アルメニア地方・アララト山脈に漂着したとされるノアの箱舟伝説に由来するものである可能性を指摘した最初の遺跡泥棒たちによって命名された。

 死んでしまった彼らは惜しい人材だった。

 腕利きの遺跡泥棒だった彼らは、これまでも多くの発掘品を裏のルートで売りさばいていた。彼らにとりミラーは最高の買い手であり、時にはスポンサーでもあった。

 だから彼らは遺跡の発見直後にフリーピースの考古学協会に、とびきりの売り物を見つけたと連絡をしてきた。マスター・ミラーの好みのアイテムがみつかった、と。その直後にその彼らも〃棺〃に殺され、皮肉にも発掘される立場になってしまった。

 ミラーは貴重な発掘品を闇市場に流さないエンドユーザーだった。

 コレクターではなくエンドユーザー。ミラーとフリーピースに所属する異能者たち以外には知られていないことがある。古代の遺跡に隠された呪具から蘇る人知を越えた叡智。人間が作り出したものもあれば、魔法使いとして恐れられてきた異能力者たちが作り上げたものもある。通常の科学とは異なる、太古に失われた技術の中に彼らが求めてやまぬものがそこにあった。

 ミラーたちが欲するものは人の歴史の影に生きてきた彼らの記録だった。人間の科学と技術が空間支配を目的にして発展してきたとするなら、彼らの特異能力は因果を司る〃時間〃を支配する目的で磨かれてきた。

 時刻は現在、午前二時二十八分。

 石郷からの無線のコールサインが鳴った。ANSモニターをちらっと見て、一行が目的ポイントで停止した直後であることを知った。

「やあ、ミス・リョウコ。到着したようだね」

「今、海岸についたところ」と、石郷が淡々と答えた。

 ミラーは腹の中で蠢く炎のような疼きを意識する。獲物に一歩近づいた肉食獣のように。やはりこれも、焦燥感と高揚感なのかと思いつつ。

「先ほどコールしたのだが」

 浮ついた気分の裏に潜む不安がそのまま言葉になった。神経質な非難めいた響きのある自分の声が不快だった。言うべき台詞ではなかったと後悔した。

「ハンドルから手を離したくなかったから。運転中は携帯電話に触らないようにしている」

 フン、携帯ではなく無線だ。と、思いながらも言葉を飲み込んだ。石郷の声が妙に明るい。この女には珍しく、現状を楽しんでいるらしい。

「それは律儀だな。携帯電話のルールとしては当然かも知れないが。ところで状況は」

「〃スネイク〃の先行チームが浜に降りました」

「そちらの雰囲気を知りたいな。ミス・リョウコの感じるままに、言葉で」

 やや間を置いてから、いっそう明るい声の答えが返ってきた。

「輝くような夜になりそう、ってとこかしら」

 石郷の車から転送されてくる環境データに目をやりながら。

「そちらの外気温は3度。曇り空の筈なんだがね」

「…そう。正直な感想なんだけど」

 なるほど、そうなのかと理解した。高揚感と焦燥感が共存している自分と異なり、石郷の精神を占めているのは高揚感だけなのだ。〃棺〃の予備知識はあるはずなのに、万一の場合など考えもしない。己の能力を過信しているのか、単に無責任な立場に甘んじているからなのか、あるいはその両方か。

 ミラーに苦い笑いが込み上げてきた。

 その後、ミラーは必要な指示を石郷に再確認させて無線を切った。そしてモニターを見つめたまま、じっと考え込んでいた。生意気な小娘のことでも、謎に包まれた〃棺〃の正体についてでもない。

 ミラーの思考は焦燥感の源泉を追っていた。

 永遠の若さと不死身に近い肉体を持つ者たちに課せられた代償。約百年の周期で巡る忘却の宿命がある。一般人のいわゆる記憶喪失とは異なる、記憶の完全な消滅だった。

 ミラーがこの時代に覚醒してから既に九十六年。早ければ数年、遅くとも十年以内にはミラーは一切の記憶を失って深く長い眠りにつくことになる。その間の無防備な肉体の警護は不死身の同類や従者たちに委ねられ、空白となった心には周囲の者たちがイメージしてきたかつての人格の輪郭が精神感応によって再構築されていく。だから、赤子のような状態で眠りから覚めるわけではない。外から挿 入された、擬似記憶と共に覚醒することになる。

 肉体的な変貌はない。その精神の輪郭も同類たちの手助けでつつがなく再生を迎えることになる。失われる記憶を除いては。

 もう数千年に渡って、ミラーと彼の同類たちはこの宿命を受け入れてきた。

 数十回も記憶を失い、同じ数だけ無事に目覚めることが出来た。

(…しかし)と、ミラーは考える。

 失うものは記録ではなく、記憶なのだ。客観的に出来事を綴ったデータなどではなく、蓄積してきた個的な時間の集積。長年に渡って心を育んできた喜怒哀楽を内包する、自己同一性を裏付ける経験であるのだ。

 精神の輪郭が周囲の認識によって付与されて目覚めても、中身は虚無に過ぎない。そのうつろな見せかけの箱の中に、新しい経験を詰め込んで成長して行くことになるのだろう。今までの自分と良く似た〃別人〃が。

 通常の人間の肉体は老いやすく、脆い。

 だから人間は不滅の霊魂の存在を求め願う。輪廻転生の思想はニュアンスの差こそあれ、あらゆる民族の神話や伝説の中に語られてきた。死後に魂は肉体を離れ、一切の記憶を捨てて新しい体や異なる次元の世界で生まれ変わるという。

 それが真実であるのかは、不死のミラーたちの知るところではない。

 だがもしそうではないなら、不滅の肉体を持つ自分たちにも同じことが当てはまるのではないか、と彼は考えている。ミラーの肉体は現在のミラーの精神を創造した。しかし忘却の果てに次に覚醒する時は、ミラーの肉体は新しいミラーの精神を創造するだけなのではないか、と。

 例え不死身であろうとも肉体は所詮ただの器に過ぎないなら、年老いて朽ちて行く人の体と大した違いなどない。むしろ、確実な老いと死を見つめて生きる人間たちの方が鮮烈な生の本質をその魂に刻めるのかも知れない。

 現在のミラーの精神は、記憶消滅と共に死ぬ。覚醒直後の彼らの精神など、周囲の者たちによって構築された人格プログラムのようなものだ。それはやがて多くの経験を積み重ね、新しい彼になっていくのだろう。

 以前は漠然と思っていたことも、忘却の時が近づくにつれてより鮮明に認識できるようになっていた。おそらくこの死ぬことのない肉体の中で育まれてきた精神は、忘却の数だけ同じことを考えてきた筈である。

 果たして、死と忘却に違いはあるのか。

 その答を捜すために、ミラーは〃棺〃の調査を進めている。

 これまでに収集してきた古代の呪術アイテムは、単なるシステムの残骸に過ぎなかった。言わば卵の化石のようなものだ。だが、あの〃棺〃は違う。遥か昔に創造され、無傷のまま現在によみがえった。しかもあの卵はまだ生きている。

 やがて、石郷から通信が入った。

「〃棺〃の回収は終了しました」

 先程までとは異なり、石郷の声は淡々としていた。石郷は運び屋たちの死から輸送船爆破までの経緯を簡単に知らせてきた。

「ありがとう。やはりミス・イシザトが行ってくれて助かった。詳細は帰ってきてから報告してくれたまえ」

 そう言って無線を切るとミラーは病疫対策センターに連絡を入れ、救急チームを待機させた。時刻は午前三時十七分。

 高揚感と焦燥感は、少しだけ小さくなった。

 〃棺〃の解析はようやく軌道に乗りそうだ。本格的な調査は明日の午後からかかることになっている。異能力者グループ・メビウスによる調査報告書も間もなく送られてくることになっている。恐らく、画期的な仮説を裏付ける報告を記したものが。

 そして再び、ミラーは考え込んだ。死と忘却の違いについて。

 同時に微かに感じている、身の内に潜む暗い恐怖のうねりについて。



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