棺の記憶

著 : 中村 一朗

吉岡:Vol.4


 午前七時十二分。

 吉岡はサトウ医師からの電話で高木の死を知った。

 取り乱しているサトウとは裏腹に、吉岡は淡々とその事実を受け入れた。

「本当に申し訳ない。どうしてこんなことになったのか理解に苦しむ。高木氏が自殺するなど、今でも考えられない。とにかく、すぐに来て頂きたい」

 衝撃を受けなかったといえば嘘になる。

 だが吉岡は、感情を圧殺して現実を直視することに慣れていた。

 僅かな沈黙の後で重い口を開いた。

「ミラー氏はもう知っているのか」

「…いや。実はまだなんだ。マスター・ミラーには今日一日、連絡を入れぬように言われている。本部にはいるらしいんだが。それにこのことは、高木氏の上司であるあなたに最初に知らせるべきだと考えた。もちろん、入院中の高木氏の同僚たちは既に知っている。彼らに万一のことが起きないよう、スッタフをそれぞれの部屋に待機させている。各部屋に二人ずつだ。今のところ、彼らの間にヒステリックな行動は認められない。さすがにスネイクのエリート部隊だけあって、高木氏の死を冷静に受け止めているようだ」

「世辞はいい。すぐにそっちに向かう」

 電話を切ると、吉岡はすぐにチャンに連絡を入れた。

 チャンは最初の吉岡の電話の声で不快な事態を察していた。

 高木が死んだということ以外は何が起きたのか殆ど説明もせずに、病疫センターで落ち合おうという吉岡の申し出をあっさりと了承した。無感動なチャンの応答が内心の動揺を示していた。既に死んでいる高木のことより、弟のことが気になっているのは当然だった。

 二時間後、二人は病院の遺体安置室で顔を合わせた。

 先に到着していたのは吉岡だった。

 入院患者たちへの配慮から、警察による現場検証は未明のうちに済まされており、吉岡に連絡が入った時点では既に高木の遺体はここに運ばれていたという。

 午後から検察局で検死解剖が行われる手はずになっていた。

 解剖には自分も立ち会う、と告げるサトウの言葉を聞いている時にチャンが部屋に入ってきた。先日とは裏腹にチャンは静かな口調で事情説明を求め、ある程度冷静さを取り戻したサトウは吉岡に対していた時と同じ調子で応じた。

 吉岡は彼らの会話を聞き流しながら、寝台に置かれている遺体を見ていた。

 顔のところだけが見えるようにシーツが下げられており、壊れた人形のように奇妙な角度に首を曲げている高木の顔には穏やかな表情が張りついていた。

 存分に生きて、満ちたりて死を迎えた老人のように。

 決して、苦行の果てに死によって安息を得られた自殺者の顔ではなかった。敵味方を問わず、戦場で遭遇した無数の屍には決して見ることの出来ない類のものだった。

 この高木の表情が吉岡に衝撃を与えていた。

 それは、高木が自殺したと聞いた時以上のものだった。

 彼の顔はそれ程、まるで別人のものだった。

 最前線で闘う傭兵である吉岡たちは、殺人が職業と自覚している。人を殺そうとするものは同様に殺される立場にも立たねばならない。それは戦場に限定されるだけでなく、二十四時間あらゆる場所にも適応される。即ち、殺人や傷害によって戦場で背負った憎悪や怨恨の代償は安息の放棄に外ならなかった。

 吉岡は信仰など全く持たない無神論者だったが、いずれはどこかで誰かに殺されて骸となり、死してなお地獄に落ちるべき身だと思っている。

 その覚悟が殺人を生業とするスネイクに身を置く者たちの暗黙の掟であり、最強の兵であり続けてきた吉岡の本質だった。兵士としての高度な能力もさる事ながら、この認識が彼らの間に鋼鉄の絆を構築させてきた。

 吉岡はこれまでにも多くの部下を失ってきた。

 狙撃によって訪れた突然の死に唖然した表情の者や、拷問の果てに殺された者もいれば、手足を吹き飛ばされたり顔の半分を失って死んだ者たちもいた。

 勇敢な者もいれば、少ないながらも卑怯者もいた。どれも壮絶な死に顔だったが、悲しみや憎しみよりも敬意に近い哀悼の意を持って彼ら全員を見送ってきた。

 たとえ死であろうと断てぬと信じてきた部下や仲間たちとの強い絆。

 だが今それが、片腕的な存在に成長を遂げていた高木の死に顔によって揺らいでいる。

 同時に、それに依存している自分の精神の脆弱な部分に気づきながら。

 三十分後。吉岡は弟に面会に行ったチャンとロビーで落ちあって、タクシーに乗った。

 車が走り出してから暫くして、チャンが口を開いた。

「どうしてみんなに会わなかったんだ」

「さあな。おれにもわからねえ。ただ、誰の面も見たくなかっただけだ」

「高木の顔はずっと見ていたな。何か、気になることでも…」

 チャンの声に不安が覗いている。

 高木の死が自殺ではなく、何かの意図による殺人の可能性を示唆してのものだった。

「いや。おまえが考えているようなことじゃない」

 チャンは吉岡の無表情な横顔をじっと見て言った。

「吉岡さんは、ミラーに会おうと考えているんだね」

「ああ、そのつもりだ。午後にでも行ってくる」

「今日は連絡が取れないって、さっきの医者が言ってたよ」

「財団本部には居るらしい、とも言ってたぜ。それならこっちの都合で行ってみるまでだ。居なきゃいないで、執務室の見学でもしてくるさ」

「こっそりと?」

「そうだ。門外不出の裏帳簿や、例の積み荷のネタでも探ってこよう」

「嫌がらせだね。ミラー好みの秘蔵エロビデオとかも見つかるかも知れない。上流社会御用達の有名女優とかが出てる奴」

 吉岡が笑みを浮かべ、チャンが小さく笑い返した。

「あったら取ってこよう。向こうでコピーする時間はないだろうからな」

「…おれたち、大口の新しいクライアントを無くすかも知れないのかな」

「喧嘩をふっかけるつもりはない。本音は、ちょっと話したいだけだ」

 高木の死に策謀は感じられない。それでも高木はあの積み荷の件から変わってしまった。自殺は付随的なものであり、あの穏やかな死に顔は変心の証しだった。

 何かが高木の人格を変えてしまったと吉岡は確信していた。

 ミラーに会って、何をどう話したいのか吉岡自身にも解らなかった。

“ノアの棺”の謎についてのことなのか、落とし前をつけたいのか、ただ愚痴を言いたいだけなのか、さえも。

 それでも会わねばならない、と漠然と感じた。

「そう。じゃあ、出来るだけ穏便にね。拗れたらしょうがないけど。これ…」

 チャンは鞄からディスクを取り出して吉岡に差し出した。

「フリーピース本部の警備プラン。委託先の警備会社から拝借したの。敷地の配置図と建物の平面図なんかも入ってる」

「…驚いた。準備がいいな」

 ディスクを受け取りながら吉岡は言った。

「今度の作戦にかかる前にね、手に入れておいた。一応、念の為の保険よ」

「保険は、出来るだけ使わない方がいいんだよな」

「そうそう。出来るだけ穏便に。裏口の使用は非常の場合に限ってね」

「わかってる。まずは正面から面会を求めるつもりさ」

「それからもうひとつ。石郷涼子のこと、少し調べたよ。一応のプロフィールはそのディスクに入れといたけど」

 チャンの言葉に、感情を隠した静かな響きが伴う。それが気になった。

「今、聞きたい。どんな女だと思う」

 大きく息を吸い込む程の僅かな間を置いて、チャンは口を開いた。

「経歴だけなら平凡なものだね。いや、正確には徹底して平凡過ぎるくらい。ベイルートの日本大使館で起きた爆破テロで両親を失ったこと以外はね」

 吉岡の眉間に皺が寄った。

「ベイルート、日本大使館の爆破テロ…。確か八年前だな。各国要人たちを迎えたパーティの席上で四十三人が殺された。迎賓室の会場内にいた者たちはほぼ即死だった。倒壊した建物の中での重軽傷者は百人を超えた」

「詳しいねえ、吉岡さん。あんた、関係していたのかい」

「知り合いが警備の指揮を任されていたんだ。死んだ四十三人のうちの一人だったのさ。石郷涼子の両親もその場に居合わせたって事か」

「そう。父親の方が事務局補佐だった。あのパーティには大使館に赴任していた日本人は家族で列席していたらしいよ。だから日本人の犠牲者がやたら多かった。大使館付きのほぼ全員と言っていい。例外は、たまたま体調を崩していて会場には行かなかった当時十九歳の石郷涼子だけ。だから事件直後は、彼女がテログループとの関係を疑われた。結局、シロだったけどね。事件から七か月後、人知れずに日本へ帰国した。以後、現在に至るまで東京のマンションに独り暮らし。海外赴任の多かった父親の仕事の関係で、友人知人の類は皆無だったらしい。親しい親戚もいなかった。それでも、死んだ両親の保険金や殉職手当てのおかげで金に困ることなかった。二十一歳で東京郊外の有名じゃない大学の英文科に入学し、平凡な成績で四年後に卒業している。二年間、大手商社にOLとして勤務した後に退社して、フリーで翻訳の仕事を細々と続けて現在に至っている」

「その間の友人関係は」

「調べさせた限りでは、親しい者は一人もいない。男関係も。現在も過去も。大学時代に同じゼミだった学生仲間でさえ、彼女の名前をろくに覚えていなかったって報告が来ている。無論、OL時代でも同じさ」

 意外だった。吉岡の受けた印象とはまるで異なる。

「ちょっと信じられねえな。けっこういい女だったぜ。車を操る技量だって、そこらの街道レーサーたちのレベルじゃない」

「少なくとも、調べた限りでは見つからない。サークル活動も一切なし。現在も過去も。フリーピースとの絡みだって、仕事の上でのことだけだね。もっともこの仕事っていうのは、翻訳関係のものだよ。二年前からだ」

「つまり、フリーピースからの仕事の依頼を受けるためにそれまで勤めていた商社を退職したって事か」

「一応、表向きはそんな解釈も出来るよ。フリーピース財団は彼女のメインクライアントさ。財団が発行するパンフレットなんかの翻訳だ。つまり、翻訳者の名がどこにも残らない類の仕事だってこと。実際には翻訳以外の仕事もあるようだしね。今度のケースみたいな。さすがにフリーピースの極秘項目にまでは手を回せなかったから、そっち方面の業務内容までは分からないけど」

 積み荷を回収して海岸に戻った時、吉岡は石郷涼子と目を合わせた。

 殺気だっていた傭兵の視線を、あの女は何の動揺もなく受け止めていた。

 あの一瞬、吉岡は石郷の精神に触れたような気がした。

 黒い瞳の奥底に蠢いていた、灼熱に燃える赤い炎。あれは、吉岡の心に沸き立つ無秩序な憎悪を映し出す鏡でもあった。<彼女の報告は満足のいくものだった>と、ミラーは言った。一代で世界的圧力団体を築き上げた人物に、そう言わせるだけの報告をしたという。吉岡の報告ではなく、石郷の報告でミラーは納得したのだ。

 胃の中で、冷たい氷の塊が生じたような錯覚を感じた。

 まさか船の中で起きたことの一部始終を知っていた、ということなのか。

「あの女、並の人間じゃない」

「そう。吉岡さんとは別の意味で、ぼくもそう思う。これほどプロフィールの薄い人間なんてあり得ない。人間らしい匂いが全くしないんだ。もしいるとすれば、それは意図的に目立たないようにしているとしか考えられないね」

「そんな女が、フリーピースと手を組んだ。石郷が長年隠してきた何かを、ミラー・クリスが解き放つ決心をさせた…のか」

「そして今度の事件。人を発狂させるっていう古代の遺産“ノアの棺”に関わって、もう十人以上が死んでいる。その倍以上が廃人になった」

「ミラー・クリスは人の心が読める、て噂があったな」

「他にも色々。あいつは本当に、掛値なしに現代の怪物かもね」

 吉岡はチャンの横顔を見た。チャンの瞳の奥に暗い影が通り過ぎる。

 五年以上にもなるつき合いの中で、初めて見せる陰りだった。

「なんだよ。柄にもなくビビってんのか」

 チャンは吉岡の言葉に反発するように睨み返した。

「そうかもね。正直に言えば、手を引きたいと思ってる。吉岡さんにも手を引いてもらいたい。断っておくけど、金のためって訳じゃないよ。風水や運命論を引き合いに出したくはないんだけど、香港なんかに長く住んでると、どうしても見えないものの力が世の中を動かしているんじゃないかって、そんなふうに思うようになるよ。衣食住の全てに古いしきたりが今も脈づいてるのが分かる。超高層ビルの設計だって、風水思想は機能デザイン以上に重要なファクターだ。名の知れたギャンブラーたちは例外なくゲンを担ぐ。パソコンは使っても数学を信仰する勝負師なんか存在しないよ。結局は近代科学なんて、上っ面の金箔みたいなもんだ。西洋文明が歪めた貨幣経済の原則だって、この金箔の上で成り立っているに過ぎない。けど、ひと皮めくれば人の世の中身なんて、錬金術や魔術に怯える中世とそう変わってないことは誰でも知ってる」

「よく意味が分からないが、つまり金箔を剥ぐようなことはするな、てか」

「本音はね。ぼくたちはぼくたちなりの常識の範囲の中でやっていければいいと思ってる。だけど、義理と人情と損得勘定のバランスを取ることも大切なのは知っているつもりだよ。吉岡さんは吉岡さんらしく生きればいい。だから反対はしない。出来る限り協力もする。ぼくや家族に危険が及ばない限り」

「ありがとよ。それで十分だ」

「くどいようだが、猫を殺すのは好奇心だ。吉岡さんは猫じゃないけど、猫に似ている。いや、どちらかと言えば、虎かな」

「別に、好奇心でいく訳じゃないぜ」

「本当に?それならいいけどね。うちのかみさんや子どもたち、来年の正月に吉岡さんが遊びに来ることを楽しみにしてるんだ。これは本当だよ」

 吉岡が窓の外に目を向けた。

 それで話は終わった。

 チャンは不機嫌な表情でタクシーの進行方向をぼんやりと見ていた。

 タクシーを降りるまで二人は無言のままだった。

 吉岡は空港のロビーでチャンと別れた。

 二人は香港に向かう飛行機に席を予約してあった。吉岡はそれをキャンセルした。

 軽く手を振って去ってゆく吉岡の後ろ姿に意味もなく不安を感じてチャンは口を開きかけたが、何も告げずに踵を返した。

 三十分後、チャンを載せた飛行機は空港を離陸した。


 午後、吉岡はビジネスバッグを携えてフリーピース財団本部を訪れた。

 訪問の旨を予め秘書に電話を入れておいたが、現在ミラーは不在で連絡がつかないと言う。正確には、如何なる場合であろうとも連絡を取らぬように指示されているらしい。

 それでも吉岡は本部に赴いてミラーに面会を求めた。

 施設は以前に比べて人の出入りが多かった。

 財団の活動に伴う定期的な研修に参加する会員たちや、各国各分野に身を置くさまざまな来客たちが敷地内の建物の間を行き来している。特に東の奥にある研究棟の周りではプラチナ色の通行証をつけた研究者たちが忙しげに動き回っていた。

 案内係の話では、今日は関係者以外はあの研究棟への立入を禁じられているという。

 案内係の女は吉岡のことをミラーの特別な友人と理解しており、秘書室と交渉してくれたが、結果は変わらなかった。

「じゃあ、ミラー氏が戻るまでここに泊めてもらえるかな」

 案内係は安堵したように笑みを浮かべて、すぐに接客棟の部屋を用意した。

 吉岡はパンフレットの指示通りに五階建ての接客棟のロビーに行き、そこの係に案内されて二階の部屋に辿り着いた。

 ホテル並みの設備の中で唯一異なるのは、従業員へのチップが不要なことぐらいだった。

 接客係はレストランの営業時間を告げると、一礼して姿を消した。

 木製の家具とベージュを基調にした配色の落ち着いた造りのその部屋は、なぜか高木が入院していた病室を連想させた。

 吉岡は十分程ぼんやりと過ごした後、バッグから取り出した携帯用の磁気センサーを使って部屋の中を丹念に調べた。一時間近くかけて、盗聴器や隠しカメラがないことを確認した。携えてきたノートパソコンを開き、チャンから渡されたディスクをセットする。

 パスワードを入力すると、モニター上に二つのファイルが表れた。

 最初のファイルは石郷涼子に関する調査報告だった。

 真新しいことは何もない。タクシーの中でチャンから聞いた話を確認しただけだった。

 二つ目のファイルには本部ビルの警備設計が詳細に記されていた。

 吉岡は噛み締めるようにゆっくり読んで、それらを頭に刻み込んでいった。

 半分程読んだところで、レストランのオープンを告げる放送がドア越しに聞こえてきた。

 一時間後。

 吉岡はパソコンを閉じてレストランに向かった。

 一流のシェフによる一流の料理も、今の吉岡にはただの栄養剤に等しい。機械的にコースを平らげ、新聞に目を通し、三十分後には再びパソコンを開いていた。

 じっくりと同じ時間をかけて、覚えている筈のことを再確認する。

 午後十時四十五分。

 吉岡はミラーに電話を入れた。

 秘書が出て、明日の昼まではミラーと連絡が取れないと告げた。

 吉岡は了解して電話を切った。

 ミラーが現在、重大なことに関わっているのは確信出来た。

 それが積み荷に関係していることにも絶対の確信があった。

 やはり、今夜がいい。

 三十分かけて、中央本部ビルの三階にあるミラーの執務室への侵入ルートを繰り返し頭の中にたたき込んだ。二回訪れたことがある部屋だけにイメージの構築は簡単に出来た。

 ミラーが執務室にいる可能性は低い。吉岡たちが運び込んだ積み荷は研究棟に収容されている。現在そこで、重要な実験が行われているのだろう。

 だから恐らくミラーもそこに身を置いているものと考えてよい。

 外周部と異なり、施設内警備は決して厳重なものではない。

 まして本部ビル周辺などは形式的なものに過ぎない。

 侵入は比較的容易いと吉岡は考えていたが、侮ることの愚かさは熟知している。

 シャワーを浴び、ベッドに身を横たえる。

 その三時間後、吉岡は浅い睡眠から目を冷ました。

 気分はいい。覚醒と共に、全身の感覚がとぎ澄まされた針のように鋭敏に活性化していた。飛んでいる虫さえ指二本で摘み取れるような気がした。

 最小限必要な機材を小型のショルダーパックに詰め、身支度を整えて上着をはおり、部屋の鍵を持って正面ロビーから外に出た。接客棟の監視カメラには写るが、鍵に内蔵されたセンサーが登録済の客であることを知らせてくれる。

 夜の散歩は禁じられていない。カメラの映像で吉岡であることを確認すれば、警備員たちは再び退屈しのぎに雑誌に目を向けることが出来る。

 午前二時三十五分分。

 青白い満月が闇夜に輝いていた。

 通路に沿って配置されている街灯が市街地の公園のように施設全体を照らし出していた。

 深夜の散策を楽しんでいるらしい者たちもちらほら見かけられる。

 散歩が認められているのは接客棟前のアプローチエリアまでだ。

 吉岡は注意深くぶらぶら歩きながら、そのエリアを踏み越えていった。

 接客棟から二百メートル程離れた飢え込みに脱いだ上着と鍵を隠す。

 更に影の中を四百メートル進んで暗がりから周囲を伺い、本部ビルを囲むように配置された四台の赤外線感応型の監視カメラの位置関係を確認する。

 財団本部ビルの周囲に人影はない。

 一階のアプローチとオフィス部分だけに蛍光灯がついている。

 秘書課も兼ねた総務部があるあたりだった。

 情報では、そこには常に誰かがいるという。他の部分からは、非常口を示す幾つかの常夜灯の微かな明かりがぼんやりと窓越しに覗いている。

 吉岡のいる位置からは、ミラーのオフィスがある三階に人の気配は感じられない。

 五分後、巡回警備員三名が時間通りに反対側の通路を通り過ぎていった。

 彼らの動きに合わせて、二台の監視カメラが追っていく。

 吉岡は腕時計でタイミングを測りながら、警備員たちの様子を伺っている。

 背を向けた彼らが二百メートル先の屋外灯の傍らを通り過ぎた瞬間、吉岡は黒豹の俊敏さで音もなく疾走し、前方の植えこみの裏に身を潜めた。

 20分ごとの巡回で警備員が作り出す、監視カメラの死角はこの十秒間だけだ。

 気配を消して影の中に張りつくように沈み込み、素早く本部ビルの裏側に移動した。

 そのまま人形のように不動のまま次の巡回を待つ。

 さらに20分後。

 警備員たちは同じルートで本部ビルの裏を通り過ぎてゆく。

 それに合わせて裏側の二台のカメラが彼らの動きを追っていった。

 吉岡は時計を見ながら建物の壁際に走った。走査線の届かない袖壁の死角に身を置いて、警備員たちの姿が視界から完全に消えるまで待つ。

 二分後。

 エレベーター加圧室の裏に回り込んで鍵を外し、E・V機械室の中へ。

 ここのエレベーターは建物のデザインを重視するために屋上階に塔屋を設けない最新型のものが導入されている。チャンの情報では、広い敷地にゆったりと立つ低層階建ての美術建築では最近の流行りだという。

 機械室は二メートル半四方の広さだった。

 屋内監視カメラの映像もここの配線を介して警備室に送られている。ただし、今は監視カメラの電源が切られている。本部ビルに来客のいない時間帯には屋内警備員もいない。

 これもチャンがあらかじめ調べあげていた情報通り。

 携帯ライトの小さな光を頼りにエアージャッキ横の狭い点検用パネルの隙間を抜けて、エレベーターブロック内部に侵入した。奥行き三メートル、横方向五メートルの断面を持つ光のない空間が、上下方向に伸びている。

 地下二階のフロアまでは約七メートル。

 二組あるエレベーターボックスはその位置に停止しているはずである。

 下方向にライトを投げかけてみると、三メートルほどのところにボックスの天井パネルが闇の中にぼんやりと浮かび上がった。上に光を向ける。三階の扉までは約八メートル。

 バラストガイドのスチールバーを掴んで、吉岡は頭上の扉に向かって上り出した。

 手がかりは困らなかったが、闇の中のために三階の扉にたどり着くまでに三分を要した。

 ロックを外して扉をこじ開け、常夜灯の薄暗い光に包まれた廊下に出る。

 不要になった携帯ライトの電源を切った。

 その時、吉岡の心に何かが触れた。

 ぞくりとする、記憶に新しいあの感触。

 それはつい先日、海の上でメイランの幻を見た時に感じたものと酷似する。

 反射的に振り返り、エレベーター開口部の闇を睨む。

 何もなかった。誰もいるはずがないと承知していたが、それでも暫く目を凝らしていた。

 じわりと沸き上がる不安と疑念をねじ伏せて、吉岡はエレベーターの扉を閉めた。

 首筋に纏い付く冷たい風を意識しつつ、ミラーの執務室に向かっていった。

 通路を支配する完全な静寂。

 唯一の音は、自らの内側から響いている規則正しい心臓の鼓動。

 二つ鼓動が響くごとに、一歩ずつミラーの執務室に近づいていった。

 接近するにつれ、首筋の冷気はますます冷たくなっていった。

 吉岡の心は二つに分離し、その片方が身のうちに起きている予感めいた本能の反応を不思議な気分で淡々と観察している。もう一方は予め組み込んである潜入プログラムにあわせて機械的な正確さで肉体を動かして、右手を執務室の把手にかけさせた。

 金属の冷たい感触を確かめるようにして、ゆっくりと開ける。

 あかりの灯っていない無人の部屋。

 しかし暗闇に様子を伺いながら室内に身を滑り込ませた時、戦場にも似た異様な戦慄が吉岡の精神を包み込んだ。

 危険を訴える本能の警鐘を制して、扉を閉めた。

 月光が彩る夜の庭が窓越しに見える。

 薄闇の中。

 暫くすると部屋の暗がりに目が慣れてきた。

 ミラーが身を委ねていた大型チェアーの後ろの壁一面には本棚があり、その狭間に頑丈な木製の扉があった。

 以前にここを訪れた時には、こんな扉は見かけなかった。

 恐らく稼働式の本棚で隠されていたものと推察できた。

 この階の平面図を思い出し、今居る部屋の大きさと比較してみて、少なくとも奥行き三メートル程のスペースがあると考えた。

 奥に書庫か隠し部屋があるのだ。

 吉岡は身を沈めながら慎重に床に左手をつき、脇下に吊ったホルスターから大型ナイフを右手でゆっくりと引き抜いた。

 銃は持っていない。

 手元にある唯一の武器がこのナイフだったが、闇の戦いではこいつが最も役に立つ。

 それでも冷えきった部屋の中で、掌と額にじっとりと汗が滲んだ。

 緊張を強いる何かが奥の部屋にいることは直感的に確信出来た。

 執務デスクを回り込んで把手を掴んだ時、首筋に先程以上の悪寒を感じた。

 開けてはだめだと叫ぶ誰かの声を聞いたような気がした。

 それでも吉岡は把手を回した。

 鍵は執務室側についている。

 扉は執務室の内側に開いた。

 束の間の夢の中に居るような空白の思考のまま、完全な闇が支配しているその部屋の入口に佇んでいた。平面図に当てはめてそこに窓がないことはすぐに思い当たった。

 ナイフを握り直して、部屋の中に足を踏み入れた。

 突然、吉岡は総毛立った。

 闇の奥に何かがいる。

 気配だけではない。

 たちこめる匂いは獣臭に似ている。

 しかもそれは、大型肉食獣のものだ。

 現代の怪物といわれるミラーなら、執務室の隣にボディガードを兼ねるペットの虎や豹を飼っていることもあり得る。だが、そんなものではないことを吉岡の本能は察知している。野生どころか、血みどろの戦場でも遭遇しない悪夢の敵。

 吉岡は扉枠の周りを手探りにスイッチを見つけた。

 僅かに躊躇ってスイッチを入れる。

 瞬時に闇は一掃され、蛍光灯が殺風景な部屋を照らし出した。奥行き三メートル弱、横に八メートル。家具や調度品の類はない。

 例外がひとつ。入口から遠い壁の傍らに大型のパイプベッドがある。

 その上にミラーがいた。

 ミラー・クリスはスーツ姿のまま、靴さえ履いたままベッドに身を横たえていた。明かりがついても吉岡が近づいても、ミラーは微動さえせずに、眠り続けている。

 眠り続けている?いや、呼吸をしている様子もない。

 ベッドの傍らで吉岡は額から流れる汗を拳で拭った。

 闇の中から威圧していたものの正体がミラーと解っても、身の内で警報を鳴らす本能の脅威は消えていない。むしろ一層強く、少しでも早くここから離れるように促してくる。

 ミラーが死んでいるとは思えなかった。

 制止を求める心の声を振りきって、吉岡はミラーの体温を調べようと左手を額に近づけた。右手には、いつでも使えるように大型ナイフを前方に構えたまま。

 そして半歩踏み出した次の瞬間。

 バネ仕掛けの素早さでミラーの右手が跳ね上がり、吉岡の左手を掴んだ。

 万力に締めつけられる激痛に抗して、吉岡はそれを振り払って後ろに大きく飛び下がった。反射的に閃かせたナイフがミラーの右手前腕部を傷つけていた。

 滴る血がスーツの袖口まで染めていく。

 更に二歩、吉岡はミラーを身ながら後退する。

 それに応じるように、ミラーがむくりと上体を起こした。

 同時にカッと両眼が見開かれ、真っ赤に充血した眼球が剥き出しになった。

 そこから圧倒的に凶悪な殺意が迸る。

 大柄なミラーの巨体が更に大きく膨れ上がるように感じた。

「…ミラー・クリス…貴様、ほんとうに」

 辛うじて吉岡の喉から漏れた声はそれだけだった。そこに原始的な怯えの響きがあることを意識して、滑稽な非現実感に狂気じみた笑みを浮かべた。

 吉岡の反応に関係なく、ベッドから降りたミラーは背を丸めながら低い唸り声を発した。

 威嚇のためではない。蓄えている破壊衝動を炸裂させるカウントダウン。

 ミラーの口が横に大きく裂けてゆく。

 人のものではあり得ない巨大な犬歯が真っ赤な唇から剥き出されてきた。

 折り曲げられた指の先からは強靭なカギ爪が伸びていた。

 その時になってようやく、吉岡は目の前の男が今や人間ではない存在に変貌を遂げつつあることを理解した。

 ふいに、吉岡を睨み据えていた視線が右に振れた。

 苛立つように小さくうなると、ハエを追うように虚空を右手で払った。

 吉岡には何が起きているか解らなかったが、唯一のそのチャンスを見逃さなかった。

 反転して床を蹴ると入口に向かった。

 執務室側に出で扉を閉め、素早く鍵を掛ける。

 ミラーだった怪物を閉じ込めることに成功した。

 だが、一歩身を引いた瞬間に爆発的力が奥の部屋で炸裂した。

 棚が壁ごと揺らぎ、何冊かの本が床に落ちた。

 もう一歩下がった時、部屋の奥で再び力が弾けた。

 吉岡が背を向けた時、三度目の打撃に耐え切れなくなった扉が木端微塵に砕け散った。

 飛び出してきた怪物は素早く回り込んで吉岡の退路を絶った。

 薄暗がりに怪物の瞳は夜行獣のようにキラキラと輝いて見えた。

 吉岡は逃げきれないものと覚悟を決めた。

 窓を開けて外に逃れるだけの時間はない。

 背を向ければ死ぬ。

 もはや、生存をかけて戦う意外に道はなかった。

 スピードとパワーでは相手の方が遥かに勝っている。

 恐らく、闘争本能の強さにおいても。武器は右手のナイフのみ。

 だがこれは、僅かながらも怪物の体に傷をつけている。

 相手が血を流す生き物ならば殺すこともできるはずだ。

 怪物は執務室の出入り口を背に、両腕を開いてをじりじりと吉岡に歩み寄ってくる。獲物を確実に仕留めようとする肉食獣の動きに似ていた。

 吉岡はナイフを両手で握り、下段の位置に身構えた。

 同時に怪物が僅かに背を丸めた。

 飛びかかるための先行動作。

 次の瞬間、突き出された右腕が電光の速さで吉岡の頭部に襲いかかってくる。

 予想以上の速度に瞠目しながらも吉岡は退かずに左横に身を転じて辛うじて避けた。

 怪物の首筋を目の隅に捉える。その一点に向けて、渾身の力を込めたナイフの切っ先を横なぐりに打ち込んだ。肉と骨を絶つ強烈な手ごたえ。

 だがそれは怪物の首を切り裂いたものではなかった。何が起きたか理解する前に怪物の右掌が側頭部を直撃し、吉岡の体は壁際まで吹っ飛んでいた。

 激しく叩きつけられた瞬間、吉岡は怪物の切断された左前腕が床に落ちる様を目撃した。それが、自分が斬り落としたものであるとは気づかなかった。

 腕を失いながらも平然と振り向いた怪物の表情が人間のものに変わりつつあった。

 意識を喪失する刹那、吉岡はミラー・クリスの前で自分をかばうように虚空に漂っている影のような存在を見た。

 自分を守ってくれようとしている、亡霊…メイラン…



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