棺の記憶

著 : 中村 一朗

ミラー:Vol.4


 〃棺〃の最外殻障壁が崩壊してから四時間後。

 ミラーはひとり、特別研究棟の地下三階にいた。厚さ五十センチのコンクリートと50ミリの鉛の壁で囲まれた小部屋の中。目の前には〃ノアの棺〃がある。ミラーも直接手を触れたのはこれが初めてだった。金属ともセラミックとも判別のつかない冷たく滑らかな感触を掌に感じている。

 感傷的な気分はまったくない。強い好奇心があるだけだった。既に一時間近く、ミラーは〃棺〃の内部に向かって思念を送り続けて内部を探っている。

 生温かい深海を進んでゆくような気分だった。自分の体が不定形の軟体動物になったような錯覚だった。五感を超えた精神の認識世界だが、ミラーの脳はそれを理解できる範囲で擬似的な感覚情報に変換している。

 広大な深い闇の中、無数の結節点で絡み合った釣り糸のような因果の流れが感じ取れる。巨大な無限回廊にも相当するそれらのひとつひとつが、亡霊たちの記憶の残骸だった。一千年、あるいはそれ以上の時の流れの中で、闇の深淵に取り込まれて食いつくされた精神の骸。そこに浮遊するミラーの意識の一部は、山岳地帯を風に運ばれて飛ぶ一粒の砂にも似ていた。ひとつの世界を、その世界の中心を求めて徒歩で旅をしようとする空しさを覚えていた。

 しかし同時に、沸き上がってくる喜悦がある。目的の半分は達成できた。古代において、記憶を保存する技術が存在したことは証明された。亡霊の記憶を保存できるなら、人の記憶も保存できるものとミラーは確信している。また、こうして直接接触出来るようになったことも大きな成果である。

 それでも単独での探査などやはり不可能だった。初めて〃ノアの棺〃がここに運ばれてきた時、ミラーは決して手で触れてみる気にはなれなかった。恐怖などではなく、ビジョンの不快感によるものだった。ミラーに限らず、研究スタッフは今日に至るまでまだ誰も直接その表面に手を触れていない。放射性物質を扱うような慎重な手際でデータの収集が行われてきた。

 簡易シールドごしではあったが、直接接触した時間が長かったのはスネイクのメンバーたちだった。〃棺〃をここに運び込んだのも彼らだった。その後遺症で、吉岡を除く全員がまだ入院中である。さらに半日前、吉岡の片腕に相当する高木宗一というメンバーが病院で自殺したと報告を受けた。

 ミラーは自殺者に同情などしなかった。だが、自殺の原因には興味がある。高木の自殺に関して吉岡がミラーに連絡を取ろうとしていると、十二時間前に事務局からの知らせを聞いた。それはミラーも望んでいたが、今はだめだ。吉岡には明日以降に自分の方から連絡をするつもりになっていた。

「マスター・ミラー。十五分前です」

 ミラーは思念の探査を中断して目を開いた。スピーカーからの研究スタッフの声に顔を上げて、カメラに向かって笑みを返した。予め石郷涼子の接触予定の十五分前になったら知らせるように指示しておいたのだ。

 ミラーは、鉛を挟んだ電子ロック付きの二重扉をふたつ通り過ぎてエレベーターに向かった。モニタールーム前のエレベーターホールに着くと、心配顔の研究スタッフたちに迎えられた。彼らは〃棺〃が最外殻障壁を再生させる可能性を恐れていた。ミラーにも僅かながらその危惧はあった。だがその場合でも何とか自力で対応できると思っていた。理由はあの石版に刻まれていたビジョンと〃メビウス〃による報告書による。同じイメージ素体でありながらソフィアたちとは異なるビジョンを観たことがその自信の根拠だった。自分は、ノアの課したテストのひとつをパスしているのだ、と確信していた。

「マスター・ミラー。ご気分はいかがですか」

「ありがとう。心身共にたいへん良好だ。だが、〃ノアの棺〃の闇は広い。このプロジェクト、簡単には終わりそうもないな」

 ミラーに続いてスタッフたちもモニタールームに入った。部屋に残っていた二人のスタッフは石郷涼子の精神跳躍の準備にとりかかっていた。

「ミス・イシザトはどうしている」

 無人の部屋を写しているモニターを見ながらミラーが聞いた。

「先程目を覚ましました。今は控え室です。それと、事務局から連絡がありました。〃スネイク〃のミスター吉岡がいらっしゃっています。御面会は明日以降ということで納得して頂きました。今は接客棟においでです」

 ミラーは意外そうに目を細めた。

「それは好都合だ。明日、私から会いに行こう。では、後はよろしく」

 研究スタッフたちに見送られて、ミラーは外へ出た。

 午後十時三十五分。満月が中空に輝いている。ミラーは暫く立ち止まって月をじっと見ていた。高揚感がじわじわと五体に広がってゆく。月光は闇を拭い去り、昼間のように明るく感じた。今のミラーの視力は夜光獣に匹敵する。だが戦闘力においては、大型肉食猛獣のレベルさえ遥かに凌いでいる。

 そして、ミラーのサイキック能力も満月期の今がピークにある。

 ミラーは突然走り出した。通路脇の藪の中を抜け、大きく跳んで監視カメラの警備領域に身を置いた。赤外線センサーが反応してカメラが補足する直前にミラーは如何なる野獣にも不可能な速さで移動していく。そうして四台の監視カメラを弄んだ。センサーが何かを捉えた記録は残っていてもビデオ映像には何も写っていない。警備員たちが頭を抱える姿を思って笑みを浮かべた。

 スーツについた埃を払いながら誰にも気づかれずに本部ビルに入ると、階段を駆け上がって執務室に向かった。本部ビルでは夜間の監視カメラは電源を切ってある。中庭をカメラに写らないように移動するのも、階段を全速で走るのも意味などなかった。高揚感がもたらすただの遊び心だった。

 執務室の中は月光で明るかった。少なくとも今のミラーに照明は必要ない。それどころか、明る過ぎると感じた。精神の集中には深い暗闇が必要だった。

 ミラーは本棚を移動して隠し扉を開けた。奥の部屋に窓はない。扉を閉めると、真の闇が訪れた。簡易ベッドに身を横たえて目を閉じる。空間の制約を超えて広がってゆく認識の世界。〃棺〃の謎を求めるミラーの意識の視界は幾つかの精神の光源を同時に捉えた。特別研究棟のスタッフたちだった。

 ミラーは活性化した精神感応力によって彼らも気づかぬ間に容易にその心に侵入し、その五感を通して状況を観察することができた。スタッフのひとりの目を通してモニターを見た。石郷は〃棺〃を収容した部屋の隣にいた。

 石郷涼子は先程とは異なる認識転送ユニットに身を横たえていた。〃棺〃の核に照準をセットした強制ゲートも起動中。そのための極超積分プログラムは高速コンピュータをオーヴァーロード寸前にまで追い込んでいる。

 二分前に、石郷は既に接触を開始していた。

 一瞬躊躇ったが、ミラーは意を決して肉体から意識を離脱させた。そして石郷と接続している強制ゲートを介して、〃棺〃の奥に跳躍してゆく。

 闇と光と因果の輝きがミラーを圧倒する。ゲートとの緩衝で歪んだ時空隙を抜けて、蛞蝓が這った跡のような赤く輝く石郷の思航跡を追っていった。

 予め見ておいて知っていた筈だったが、奥に進むにつれて重圧感は強くなっていった。精神的なプレッシャーによるものではない。深淵の奥に潜むものが少しずつ力を加えてきているように思えた。この重圧のかかってくる方向に精神〃核〃があるのだ。後方では石郷の思航跡が徐々に消え始めている。恐らくあの後方ではミラー自身の思念跡も消えつつある。

 亡霊たちの記憶と異なり、ここを通過する思航跡は時間と共にゆっくり消滅する。先程の単独接触の時に確認していたことだったが、目の当たりにするのはやはり気持ちのいいものではない。もし石郷を見失えば、ミラーはひとつの宇宙にも似たこの意識界で〃道〃に迷うことになる。

 だが今のミラーにそんな不安はない。黄金の玉座にたどり着くことが全てに優先している。石郷などはそのための道具、ただの道標に過ぎない。

 玉座の主である古代の天才的魔導師ノアとコンタクトを持つこと。それこそがこのミッションの目的である。ノアこそ、この神秘の〃棺〃の創造者なのだとミラーは信じている。死者の記憶をコピーして保存できるノアなら、生者の記憶をコピーする技術も持っているはずである。

 やがてミラーは前方に石郷の意識体を捉えた。巨大な暗黒の球体を取り巻く赤く激しい乱気流。最外殻障壁を崩壊させた時にモニターで見ていたものと同じだった。実際にその姿そのものが石郷の意識体であるわけではない。ミラーの自我が先程の記憶を介してそのように映像認識しているだけだ。

 そして黒い球体は、黄金の玉座を納めた精神〃核〃の意識世界と確信した。

 二つの力の流れが融合するその圧倒的な精神エネルギーの渦に抗し切れず、ミラーは思念跡を通して石郷にコンタクトをとった。

「ミス・リョウコ。聞こえるか」

 僅かに間を置いて、石郷はすぐに反応した。

-ええ。不愉快なくらいはっきりとね-

 共鳴融合〃渦〃による精神乱流の影響で石郷の思念は聞き取りにくかった。加えてその意志には言葉通りの明白な不快感が含まれていた。それでもミラーは石郷と連絡が取れたことで安堵した。ミラーが石郷の跡をつけて来たことを知られてしまったが、いずれは明かさなければならなかったことだった。

「こちらはミス・リョウコの思考秩序をかすかに感応出来る程度だ。残念ながら、わたしには君ほどの力はない。少しでも擬想空間の視覚認識を翻訳増幅してもらえると有り難いのだがね」

-そんな手間はゴメンよ。意識体の凝集だけでも面倒なんだから-

 ミラーの中で怒りが揺れた。暗黒球体内にある黄金の玉座を視認するためには石郷の協力が絶対に必要だった。ミラーは強制するように思念を荒げた。

「わたしは君のスポンサーだ。多少の我が儘は聞いてもらいたい」

-知らないわ。お断り-

「わたしは是非そちらの世界を見てみたい、と言っているのだ。必要なら二割の追加料金を払ってもいい」

 滑稽な取り引きと承知していたが、ミラーは必死だった。多少の羞恥の念も感じていた。すると火に油を注ぐように、石郷の意識から嘲笑が返ってきた。

-あんまりしつこいと、あなたの〃力〃を情報網に流すわよ。本当は、信者が

 もっとびっくりするような奇跡をたくさん起こせるって事。こうしてわたし

 と接触していること、そこのスタッフに伝えてしまおうかしら-

 屈辱感に苛立ちながらも、これ以上の主張は無意味だと判断した。

「そんなことは君にとり、何のメリットにもならない。…了解した」

 つくづく嫌な女だ、ミラーは思う。だが、そう感じていることを相手に読ませないようにする程度には冷静でいられた。黄金の玉座にたどり着くまでは、石郷に頼るしかない。玉座の主・ノアに会うまでは。

-じゃあ、そういうことで。これから前進する。先に障壁はないらしい。ここ

 からは歩かなければならないから-

 事務的な言葉とは裏腹に、石郷の思念は楽しげに感じた。緊張感など微塵もない。まるでピクニックにでも行こうとしているように。いつ鼻歌を歌い出してもおかしくない精神状態だった。しばらく石郷の様子を観察するつもりだったが、浮ついた気分に拍車がかかっていっているのは明白だった。

「どうした、ミス・リョウコ。意識に揺らぎが生じているようだが」

 堪り兼ねてミラーが問う。石郷は酒に酔ったように笑っている。

-覗き見はやめなさい。行儀が悪いわね、ミラーさん。擬想が変化してきた。

 寒々とした荒野と霧がとても美しい。赤と黒と緑と、灰色の世界…-

 石郷が何らかの影響を受けていることは間違いないと確信した。

「君の認識は非常に感傷的に思える。先日までの話し合いでは、決して見られなかった傾向だ。大丈夫なのか」

-心配してくれてありがとう。ここは、居心地がいい。あら…。これをあなた

 にも見せてあげたい。いつの間にか、枯れ木がみんな腕や足になっちゃった

 わ。…これが蠢いていたらもっと不気味でしょうね。きっと、ジャンケンに

 勝たないと先に進めないのよ…-

 球体を包む石郷の思念は先程よりも激しく輝いている。エネルギー流の乱れは更に過激に変化した。酒気帯びから泥酔者に変わったように。意識界の奥では何が起きているのか全く予想がつかない。石郷が何をしているのか想像もできなかった。ただひたすら楽しげで、そのくせ酷く危険な匂いを感じさせた。

-…なるほど、良くできている。骨や健も本物と同じだ-

「十分に気をつけたまえ、ミス・リョウコ。そこは大勢の者たちを殺してきた精神呪場の中枢なのだ。何が襲ってきてもおかしくない」

 もともと石郷がこれほど脳天気な性格だったとは思えない。既に相手の術中にはまってしまっている可能性は大いに考えられる。

 ミラーは戦慄した。ノアの感応力が石郷の精神防壁能力よりも上手であったなら、今回の接触は失敗に終わる。石郷は〃棺〃の精神核に取り込まれて…

-人間の精神〃核〃とは違うわ。寄生虫のような〃外傷〃や〃象徴〃は現れな

 いと思う。ここの領主はしっかりと擬想を管理しているらしい…。つまり、

 わたしに心を開いてくれているってこと-

 意識体の小刻みな振動は石郷の楽しげな笑いである。

 それでもまだ、彼女が完全に狂気の縁に追い込まれてしまっているとは思えなかった。今のところ判断力までは損なわれていない。辛うじて。

「ミス・リョウコ。精神〃核〃と接触しているなら、出来るかぎり詳しく情報を転送して欲しい。もし危険を感じたなら、躊躇わず引き返せ」

 ミラーは石郷が精神〃核〃に取り込まれるのは時間の問題と考えた。

 しかし石郷からの反応は返ってこなかった。ミラーは同じ認識を繰り返したが、やはり返事はなかった。しばらく待って再度繰り返した。

 暗黒を貫く谺は静寂のみ。

 沈黙は闇よりも暗い。ミラーは黒い球体内に侵入した石郷の自我の座標を探ろうとしたが、辛うじてその凝集体が動いていないことを関知するのがやっとだった。そしてその意識さえ、思航跡の残像のように薄らいでいった。

 もはやその座標に留ることは危険だと判断した。石郷だけではない。ミラーについても同様に。

 戻るか、進むか。いずれの場合でも楽な道はない。

 戻るにしても二人の思航跡が消えてしまっている以上、強制ゲートの座標を見つけ出すまでかなりの時間を要する。藁山の中で針を捜すようなものだ。

 先に進んで球体内部に侵入しても、認識情報を視覚転換出来ないミラーには自力で黄金の椅子にたどり着くことは困難である。ましてミラー以上の感応力を持つ石郷さえ、精神〃核〃の罠に落ちたのかも知れないのだ。もっとも石郷が精神〃核〃に捕えられたのなら、それはそれで構わなかった。かえって玉座の主と交代させる駆け引きの手間が省けるからだ。

 思い悩んだ挙げ句、ミラーは暗黒球体の内部に侵入する決心をした。もし当初の思惑通りに事が上手く運んでいたなら、どうせ次からは石郷の力に頼らず全て自力で精神〃核〃と接触しなければならなくなるところだった。

 しかしその直後、何かの強い警鐘がミラーの意識を貫いた。本能的な衝動に由来するこの世界の外側からのもの。その方向に意識を向けると、スタッフが開いた強制ゲートの座標を捉えることが出来た。

 ミラーは強制ゲートに向かって跳んだ。障害となる因果の結節点や亡霊たちの記憶を避けながら、一気に。そして、〃棺〃の精神世界から脱出すると、ミラーの意識体はミラー・クリスの肉体へと回帰していった。

 そしてすぐに異変に気づいた。


 ミラーは執務室に立つ自分に気づいた。

 部屋の中は嵐のあとのように書類が散乱している。本棚は倒れ、机の上のものは床に投げ出されていた。部屋の隅の血溜まりに崩れ落ちている男が一人。大型のナイフを固く握り締めたまま。そして意識のないその男を庇うように、ミラーへの敵意を秘めた亡霊が両手を広げて守ろうとしている。それが吉岡であると気づいても、まだこの状況が理解できなかった。

 一体、どうしてこんなことになっているのか。

 左腕に強い疼きを感じて視線を落とした。その時になってようやく前腕が切断されていることに気づいた。腕は床の上に落ちていた。出血はあまりない。傷口周囲の筋肉組織が収縮して血管を抑えている。血の乾き具合から、切断されてから三十分以上は時が過ぎているように思えた。

 ミラーはデスクのスイッチを押して部屋の明かりをつけた。その傍らに落ちていた腕を拾い上げようとして足を止めた。その鮮やかな傷の切断面を目にして何が起きたのか推察できた。左腕は大型ナイフの一撃で切断されていた。

 吉岡に斬り落とされたものに違いなかった。

 どういう訳か吉岡は明日まで待ち切れずに、ミラーの執務室に忍び込んだ。そして奥の部屋に居た無意識状態のミラーと遭遇した。吉岡の不幸はミラーが意識の離脱中だったことと、今夜が満月であったことだ。無意識状態にある満月期の肉体は防衛本能だけで動く怪物に等しい。危険を感じれば相手を殺してでも身の安全を図ろうとする。もし吉岡がただのこそ泥程度の小物だったら、ミラーの肉体が覚醒するまえに恐怖で逃げ出していた。

 傭兵の血臭が無意識のミラーの肉体を凶獣に変えた。

(それにしても、…)とミラーは感心した。

 生身の人間がナイフ一本で満月期のミラーと戦って生き残るとは。しかもミラーに深い傷まで負わせて。どのような戦いだったのか興味深かったが、残念ながら記憶にない。脳に残る記憶の時間を慎重に遡れば、ここで起きたことの残像ぐらいはたぐり寄せられるだろうが、手っ取り早いのは吉岡の記憶を覗くことだ。ついでに、吉岡がここに忍び込んだ理由も読み取ってしまおうと考えた。まずは目の前で震えているこのうっとうしい亡霊を消去してから。

 〃棺〃の内部に居る時の警報は、肉体の自己防衛本能が発したものだった。そしてそれがミラーにとって精神〃核〃からの脱出の道標になった。ミラーは吉岡によって傷つけられ、そのおかげで助けられたことになる。

「…少々残念だよ」と、ミラーは呟いた。

 ミラーは吉岡には好意を持っていた。吉岡に取り憑いている亡霊は嫌っていたが、吉岡本人は有能な傭兵であることを認めてもいた。図らずもそのことを満月時のミラーを傷つけることで、今この場で証明している。こういうことにならなければ、ビジネス上の良いパートナーになったことだろう。

 だが、もはや吉岡をこのまま生かしておく訳にはいかなくなった。〃ノアの棺〃のことのみならず、ミラーたちの事についても知られてしまった。

 吉岡は瀕死の重傷だった。折れたあばら骨が肺に突き刺さり、大量の喀血と共に呼吸困難に陥っている。頭部へのダメージも内出血を伴うものだった。放っておけば夜明けを待たずに死ぬ。ミラーはそれを少しだけ早めてやるつもりでいた。苦しむ時間を短くしてやろうと。少しだけ彼の記憶を覗いてから。

 ミラーの意図を察したように、亡霊の輪郭が揺らめいた。

 まるで怯えているように。

 ミラーは亡霊への嫌悪感に顔を歪めながら、床に落ちている左腕を拾い上げようと右手を差し出した。

 その時、ミラーはエレベーターの稼働音を聞いた。扉が開き、ひとりがこのフロアーで降りた。そしてゆっくりと、この部屋に近づいてくる。

 ミラーは反射的に思念を使って執務室の扉をロックした。



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