棺の記憶

著 : 中村 一朗

吉岡:Vol.3


 病疫対策センター心理病棟の隔離療室にたどり着くために、吉岡はカウンターで三度署名をしなければならなかった。最初は中央玄関の総合案内カウンターで。二度目は心理病棟のカウンター。三度目は入院患者を隔離するために各階ごとに設けられた受付で。

 三度とも自分の名と訪問相手の名を記した。

 吉岡は素直に従っていたが、同行のチャンは三度目には受付係の警備員に口汚く文句をつけた。カマキリのように痩せぎすの目つきの悪い警備員は、仏頂面でチャンの暴言を無視して通路のロックを解除した。

 スチールヘアラインで縁どられた硬質ガラス製の扉を開けると、医療主任のバッチをつけた初老の小柄な医者がにこやかに吉岡たちを出迎えた。

 その間、チャンと警備員は険悪な視線で睨み合っていた。

「はじめまして。このフロアの患者をまかされておるチャールズ・キム・サトウです。マスター・ミラーから連絡を頂いね。お待ちしていた」

「吉岡です。彼は友人のチャン。こちらに入院しているリャン・セイホウの兄です」

 リャンは警備員から医者に視線を移したが、暗い目の光はまだ消えてはいなかった。

 医療主任は気にも止めぬ様子で小さく頷いた。

「あんた、香港生まれですか」と、チャンがぶっきらぼうに聞いた。

「祖母はイギリス人。父は日本人だ。母と祖父は香港生まれの中国人でした。わたしは上海の生まれでね。香港なんかじゃない」

 二人はあからさまに嫌いあった。

 サトウの案内で二人はロビーの奥にある応接室に向かった。

 広々としたロビーには六人がけのテーブルが八つ配置されており、その内の半分は静かに語り合う患者や見舞客が使っていた。床の材質は内部に吸音処理を施されているコルク模様のフロアパネル。壁の腰下は、木目を生かしてニス塗りで仕上げたブナ板を横貼りにしてある。腰上はレモンホワイトの吸音クロス。そして東南の壁は、その全面の三分の二をはめ殺しの二重ガラスが占めている。

 チャンはブツブツ文句を言いながら吉岡の後ろからついてくる。藪睨みの視線を周囲に巡らせている。見舞客というよりは患者のような態度だったが、ひとり言はチャンの癖だ。

 応接室に通されると、サトウに進められて二人はソファに腰を下ろした。

 テーブルには既にコーヒーが用意されていた。

 吉岡は本能的に、入ってきた扉とその反対側のもうひとつの扉の位置を確認する。通路側の扉はシンプルなスチール製だったが、一方のものはアールデコ風の彫刻の施された木製のもの。鍵穴があるのは通路側だけ。それと、やや大きめの引き違い型の窓がひとつ。非常事態が起きれば、ここから脱出できる。ただし、このフロアは地上三階。地面は芝生。

 サトウは吉岡の視線に気づいたように窓を大きく開けてから、反対側のソファに腰を下ろした。吉岡とチャンの目をじっと覗き込んでいる。

 最初に口を開いたのは吉岡だった。

「精神科の病室に来たのは初めだが、思っていたものと大分違った。白い壁に鉄格子かガラス張り檻を想像していたんだが」

 サトウが小さく首を横に振りながら、笑った。

「映画や小説の責任は重い。偏見ですな。二十世紀中頃の刑務所のような精神病院のイメージが尾を引いておる。真剣に心の治療に取り組んでいる施設はどこでもこうした雰囲気を重視します。つまり、清潔で家庭的な落ち着いたデザインですよ。社会で受けたストレスのために歪んだ心を解きほぐすことが、心の治療の第一歩です。もちろん身体的障害のある場合は別だが」

「大口のスポンサーがついているところはいいですねえ。貧乏な病院じゃあ、とてもこうはいかないぜ」

 チャンがコーヒーをひと口で飲みほしながら呟いた。

「もちろん。貧乏な病院の妬みは噂でよく聞きます。彼らが早く消えてなくなれば、精神科の悪いイメージも少しは改善されてくるでしょうな」

 サトウは平然と言ってのけた。チャンがカップを手にしたまま睨みつける。

「ひでえ言い方だ。貧乏人は貧乏病院にしかいけないんだ。あんたの理屈なら病気の治療は金持ちの特権ってことになるぜ」

「わたしらは天国で暮らしておる訳ではない。残念ながら、あなたの言うとおりだ。貧乏な者に精神疾患を患う権利はない。現実には、彼らの多くは病院ではなく刑務所で一生を終えておるのですよ。わたしらよりもドラッグや酒を親友にしたがっている訳ですな。もっとも連中にはその方がお似合いだ」

 カップを叩き付けるように置くと、チャンは席を立った。

「吉岡さん。おれは失礼するよ。弟の見舞いに行く」

「ああ」

 チャンはサトウを無視して立ち上がり、扉へ向かった。

 チャンが応接室を出ていくと、吉岡は大きくため息をついた。

「どうも、彼のご機嫌を損ねてしまったようだ」

 サトウは楽しそうに言った。吉岡は苦笑を漏らした。

「初めからそのつもりだったんだろう」

「ええ、まあ。マスター・ミラーはあなたにだけ、お話をするようにとおっしゃっていたのでね。彼には少々悪いことをしましたが」

「さすがに精神科の医者だ。言葉と視線だけで人の心を操るとはね。会った時から、チャンを怒らせようとしていたって訳だ」

「いえいえ、その前から。今日、あなたがたが来ることは聞いていたのでね。それで、ミスター吉岡に連れがいた場合、その方に不愉快な思いをさせるように係の者たちに指示を出しておいたのですよ。ここの一階と三階の受付係と警備員は、カウンセリング分野の研修生たちだった。彼らはうまくやった」

「へえ、本物の警備員に見えたがね。大したもんだな」

「患者との信頼関係の構築のためには、精神科医にも役者並みの演技力が求められるものです。まあ、すべての職業に当てはまることだが」

「おれも一緒だったが、気がつかなかった。どうやって、チャンだけを?」

「単純な〃差別〃で。ペンの差し出し方や視線の投げ方、言葉じりの選び方ひとつで、敏感な劣等感の持ち主はすぐに反応する。…若い女性のように。特に、あちら側の職業を選択した方々には過敏なタイプが多いようですな」

「なるほど、ね。だけど、おれもあちら側の仕事だぜ」

「あなたは、マスター・ミラーのご友人だ。別格ですな」

 サトウは目を伏せて敬意を示した。無論、吉岡にではない。ミラーに対して。

「さあね。だが、面白かった。勉強になったよ」

「もう少し時間がかかると思ったが、早めに出ていってくれて良かった。例えヤクザでも、人を怒らせる仕事は楽しいものではないのでね」

「チャンは面白い奴なんだ。たぶん、あんたが思っている以上に」

「さあ、どうですかな。ところで、ミスター吉岡。あなたの部下たちには五日ほど前から面会ができるとお知らせしたかったのだがね。さぞご心配だろうからとマスター・ミラーにも指示をもらっていたから」

「旅行に出ていたんだ。それで、連絡が取れなかった」

「ほう、それはまた優雅な。どちらまで?」

「ペルシャ湾方面に。五泊六日で。チャンと一緒にね」

 サトウは口笛を吹くように唇を尖らせて、首振り人形のように小刻みに頷いた。体の割りに大振りの頭が面白いように揺れ動いている。

「イランの遺跡見物ですか」

「そう。あんたたちが二月前に行ったコースと同じだ」

 首振り人形は表情を変えずに頷いている。

「それで、収穫は?」

「お約束の観光コースを、お約束の通りに、駆け足で。だから収穫も同様に」

 首振り人形の顔が老いた猿のように醜く歪んだ。それが笑みであることに気づいた時、吉岡はサトウの仮面が一枚はがれ落ちたことを知った。吉岡とチャンが遺跡に赴いていたことなど、彼らはすでに知っていたと確信しつつ。

 サトウは立ち上がって、サイドテーブルの引き出しから雑誌程の厚さのある報告書を取り出した。それを吉岡の前に置いた。

「ここで御覧になって頂きたい。貸し出しはできませんぞ。本来なら、財団のトップメンバーしか閲覧できないものですのでな」

「分厚い書類を読むのは好きじゃないんだ。要約してくれ」

 ずる賢い猿の目に侮蔑の光が宿っている。鼻で笑うように口元を歪めた。

「あなたたちが本部に運んだ積み荷についての報告書です。“ノアの棺”とわたしらは呼んでいる。あなたたち二人が観光に行った遺跡で発掘されたものですよ。これに関係したもののうち、既に十人以上の死者が出ている。もっともそのうちの一人は、わたしの患者が射殺したのだが」

「おれの部下が、現場の判断で殺したんだ。正しいとは言わないが、間違いでもなかった。仕方がなかったのさ。ところで、あれは何だったんだ」

 サトウは神妙な表情で顎を引き締めた。視線は報告書の上に向く。

「人を狂わせる力を秘めた古代の機械。もっとも、わたしらの意味で言う機械とは異なるものだがね。何らかの儀式のために造られた法具なのか、城塞都市を破るための兵器なのか。答は謎のまま、議論と研究は今も続けられている」

「…古代兵器だと」

「恐怖や憎悪を増幅して周囲の精神を汚染する。対象はやがて集団発狂し、殺人儀式へと発展させてゆく。そんな兵器である可能性も高いことは認めてもらえると思うが。あなたやあなたの部下も体感したのだからね。何千年も地中深く埋められていたにもかかわらず、あれだけの力を発揮した。人口密度の高いところで発動させれば、核兵器並みの効果を引き起こすかも知れない。フルパワーの状態なら都市を壊滅させることだってできる。“ノアの棺”がどれほどの潜在能力を秘めているのか想像するだけでも恐ろしくなりますな」

 吉岡は報告書を手に取り、パラパラとめくった。文字など読まずに、ただ見ていた。貼付された写真だけが印象に残った。特に、自分たちが運んだ箱の中身について。棺というよりは、灰色の巨大な繭に見える。

“ノアの棺”と呼ばれるものの形を吉岡は初めて知った。

「十日前なら笑い飛ばす話だが、今じゃ笑えない。それで、教団はこいつをどうしたいんだ。ミラー記念館にでも飾るのかな」

「マスター・ミラーの深い知性は、わたしら凡人などでは遠く及ばぬ先を御覧になっておられる。わたしにはわからん。人類にとって危険なものを排除しようとするお考えでのことと、私は理解しているがね。それとミスター吉岡。フリーピースは教団ではなく財団だ。誤解はいけない」

 吉岡は素直に笑った。

「先日、同じ台詞を聞いたよ。さすがにマスターの教えだ」

「では、わたしも次の約束があるので」

 首振り猿は再び精神科学部長の仮面をかぶった。インターホンでナースルームをコールし、吉岡を病室まで案内するように指示をした。

 吉岡は立ち上がり、扉の前まで進んで振り返った。

「今思いついたんだけど、サトウさん。あんたさっき、あいつが人の心を狂わせる古代の兵器だと言ってたが、あの船の中の様子は少し違ってたよ。狂った奴等がめちゃくちゃに暴れたような跡はなかった。もしあの機械とやらが人を狂わせるなら、その後のこともプログラムされてたんじゃないのか」

 サトウが顔を上げ、吉岡の瞳を覗き込むような視線を投げた。吉岡は応接室の中で、サトウの小柄な体がふくれ上がるような錯覚を感じた。

「どういうことかな、ミスター吉岡」

「言葉通りさ。人間を狂わせるだけじゃない。ごっそり中身を持っていかれた後に、別のものを詰め込むんじゃないのか。それで、人間を従わせる」

 再び仮面をかぶったサトウは、小さく笑みを浮かべた。

「なるほど、面白い見解だ。マスター・ミラーがあなたをご友人に選ばれるのも頷ける。だが、あまり深く考え過ぎないようにお勧めする」

「集団発狂と集団洗脳を強制できる古代兵器…。そいつを使って、フリーピース教団は何をしたいと考えているんだろうね」

 吉岡とサトウは正面から睨み合った。一瞬のことだった。

 扉がノックされ、看護人の制服を着た女が笑顔をのぞかせた。

「それでは、ミスター吉岡。ごゆっくり」

 仮面の顔が笑みを浮かべた。吉岡は一瞥を残して応接室に背を向けた。


 病室のノブを握ろうとした時、吉岡はふいに躊躇した。

 理由はない。振り返り、去って行く看護人の後ろ姿を見送った。

 各病室は個室。吉岡の立っているところから先のそれぞれの部屋に彼の部下たちが入院しているという。五日前から面会の許可は下りているが、今日まで見舞客は一人もいなかったらしい。もともと傭兵である彼らの多くは独り暮らしで親戚も極端に少ないが、それ以前に彼らの入院を知るものはごく一部の友人たちだけだった。

 知人たちにはチャンから連絡が渡ったはずである。彼らは新しいミッションを受けてひと月程香港には戻らない、と。

 吉岡は高木宗一の病室の扉をノックした。返事を待たずに中に入った。

 高木はベッド脇の椅子に座って、開け放たれた窓から外を見ていた。

 吉岡が高木の名を二度呼ぶまで、彼は吉岡がいることに気づきもしなかった。

 ゆっくりと顔を向けた高木の視線が吉岡に向いた。

「よう」と、吉岡が笑みを浮かべた。

「…やあ、吉岡さん」

 高木は力ない声で、それでも嬉しそうに応じた。素直な笑みが静かに広がってゆく。全く邪気のない、穏やかな顔つきだった。

「元気そうだな。安心したよ」

 奇妙な不安を圧殺して、心にもない言葉が吉岡の口からこぼれた。

「ええ。もう随分長くここにいるような気がしてるんですよ。吉岡さんの顔が懐かしいって思うくらいにね。あれが十日前なんて信じられませんよ」

 高木に勧められて吉岡は椅子に腰かけた。

 病室はビジネスホテル並みの広さだった。トイレとシャワースペースも付属している。白いクロス張りの壁にグレーの内装用タイル。部屋の中央にあるベッドを囲むように三つの椅子が配置されている。

 ロビーとは裏腹に、昔ながらの病室のイメージである。

「見舞いに来るのが遅れて悪かったな。例の積み荷の件で、チャンと一緒に中東に行ってたんだ。慌ただしい旅だったよ。大した成果もなかった」

「積み荷の件…。ああ、おれたちの入院もあいつのせいだったんだっけ」

 吉岡は、船から積み荷の回収を終えてフリーピース本部に戻った直後から今日までの経過をかい摘んで説明した。

 その間、高木は小さく頷きながら質問ひとつすることなく熱心に聞いていた。おとぎ話に夢中になっている子どものように、とても楽しそうな様子で。まるで他人事のように。

「…そうですか。吉岡さんたちは大変だったんだなあ。おれたちはここでのんびりしていただけだから、悪いことをしたような気がしますよ。でも、おれも行きたかったなあ、吉岡さんたちと。考えてみたら、仕事以外でどこかに遊びに行くなんてことはなかったからなあ。今度、行きましょうよ」

「おい。おれたちは遊びで行ったんじゃないぜ。端から、何かを見つけるつもりはなかったがな。ミラーたちを揺さぶる。それだけの目的で中東まで散歩してきたんだ」

「わかってますよ。でも退院したら、少しゆっくりしようと思ってね」

「ところで、高木。あの時のこと、おまえどの程度覚えてるんだ」

 高木の顔が初めて曇った。考え込むように俯いて、首を傾げた。

「だいたいは覚えてます。吉岡さんに殴られて正気に返ったことも。ここの医者たちにも話したことですが。でもあの時、何を考えてどう感じていたのかが酷くあやふやなんです。悪い夢を見た後みたいに。吐き気がするほど嫌な感触はしっかり残ってるのに、細部が思い出せない。おれだけじゃなく、リャンやコニーたちも同じことを言ってるみたいです」

「…〃みたい〃って、おまえ。じゃあ、連中と顔を合わしてないのか」

「まさか。隣同士だから、よくロビーでばか話をしてますよ。でも、あの夜のことは話しません。おれは話したくないし、皆もそうらしいから」

「じゃあ、さっき言ってた旅行の話。あれは、あいつ等も言ってるのか」

 吉岡の意外そうな顔を見て高木は笑った。

「信じられませんか。三日前に旅行の話で盛り上がりましたよ。皆、行きたいところはばらばらだったけど。考えてもらえませんか。日本流の言い方をすれば慰安旅行かな。もちろん、全額自腹で」

 吉岡は視線を窓の外に遊ばせながらニヤニヤしていた。

「じゃあ、おまえ等が退院したら考えるさ」

 吉岡は椅子から立ち上がりながら、ため息をつくように答えた。

「もう帰るんですか」

「ああ。サトウとか言う医者と話が弾んで時間がなくなった。また来るよ。病院側の話だと、おまえたちの入院期間もまだ二三週間ほどありそうだからな。他の連中にもよろしく言っておいてくれ」

 吉岡が扉の前に行ったところで、高木が声をかけてきた。

「吉岡さんには感謝してます。今の俺がこうしていられるのも吉岡さんのお陰だと思ってます」

 吉岡は振り向いて笑った。

「そいつは悪かったな。今のおまえは入院中だ」

「…あ。いや、そういうことじゃなく…」

 高木が吉岡と出会ったのは八年前。

 他人の借金のために追われるように日本を逃げ出した高木は、アジア各地を点々としてニューデリー郊外の貧民街に流れ着いた。そこにはどん底の生活に適応した日本人たちがいた。放浪生活を楽しむ者や意味もなくゲリラたちに手を貸す者、阿片と酒と女に耽溺して日々を過ごしている者たちなどがいた。貧しくも居心地との良い彼らの中で、高木はゆっくりと腐敗しかけていった。阿片を買うためにパスポートを金に換えようとした時、高木は傭兵チーム〃スネイク〃の存在を知った。

 三か国語以上を流暢に話せる連絡員を求めているという話を聞きつけ、高木は中継ぎの代理事務所を訪れた。そこに、たまたま吉岡がいた。

 高木が五か国語を話せると言うと、吉岡は頷いた。そして高木の目を覗き込み、人を殺したことはあるか、と尋ねた。高木は戸惑いながら、小さく頷いた。

「八年前のあの時。デリーの事務所でおれと会った時、おまえは人を殺したことがあると言ったな。もしおまえが本当に人を殺したことがあってそう言ったなら、雇わなかった。もしおまえが人を殺したことがなくて正直にそう言っていたら、やはり雇うことはなかった。人を殺そうとして殺した経験のあるものは、少し揺さぶれば一目でわかる。あの時のおまえに殺人の経験はなかった。懸命に嘘をつこうとするかどうかが合格条件だったんだ。おまえが必死で入隊を望んでいたことは面接した俺が確認していたしな」

 高木は椅子の上で落ちつかなげに身じろぎをした。

「その話、研修が終わって正式入隊してから半年後に聞きましたよ。あの時は驚いたものです。お陰で性根が入れ替わった。あの一年後には連絡員から一人前の兵隊になれましたし。大勢の人間を、…手に掛けもした」

「性根の入れ替わりそうな奴だったから雇うことにしたのさ。それに、連絡員としては必要な条件は完全に満たしていた。…で、今は〃スネイク〃を辞めたいか」

 吉岡は静かに見下ろしている。高木は俯いたまま顔を上げようとしない。

「また必死に嘘を言うべきなんですか」

「さあな。自分で考えろよ。昔とは違うだろ」

 吉岡は踵を返して病室を出た。


 病疫対策センターの門を出たところで、タクシーが吉岡を待っていた。

 後部座席からチャンがにこやかに手を振っていた。ドライバーは地元の中国人。吉岡が扉を開けて乗り込むと、タクシーは空港に向かって発進した。

「なかなかの名演技だったろう、吉岡さん」

 チャンは日本語で言った。

「侮辱に敏感な、癇癪持ちの情報屋。加えて、香港出身。あの医者はそう信じ込んだよ」

「どうせ、暴力バカは簡単に怒らせることができるとか言ったんじゃないの」

「正解。あんた、良い占い師にもなれる。いや、精神科医かな」

「いい気にさせてやれば、余計なことまで口を滑らせるもんだからね」

「ところが、大して滑らなかった。忠誠心、どちらかと言えば信仰心の賜物かも知れない。口にした事は、ミラーに指示されていたことだけだった」

「そうか。そいつは残念。ところで、思ったよりずっと早かったね。一通り病室巡りをするなら、後一時間は待たなければならないと考えてたんだけど」

「面会したのは高木だけだ。気が変わってね」

 チャンの頬がピクリと震え、小さく頷いた。

「それであの医者の話、どうだった」

「思ったより面白かったぜ」

 吉岡はチャンが去った後の話を詳細に語った。チャンは時折質問を交え、吉岡の言葉がとぎれる度にブツブツ一人言を呟きながら話に聞き入った。

「…古代の精神干渉兵器ねえ。呪われた偶像なのか、強力な催眠兵器なのか」

「兵器かどうかは知らないが、少なくとも人間の頭をおかしくする機能があることだけは確かだ。実際におれ自身も、それなりの影響は受けている」

 チャンは大きなため息をついた。

「リャンに会ってきたんだ。元気そうだった」

「高木もそうだったよ」

 一瞬、チャンが吉岡の無表情な横顔を盗み見た。

「あいつ、すっかり毒気を抜かれちまいやがって。三十過ぎで十代のガキみたいに悩んでやがる。上っ面はやたら明るく振る舞っちゃいたが。考えちまったよ。あいつがまともにガキの頃を過ごしていたら、あんなふうだったのかも知れない、とかさ。十六の時、あいつが人を殺したのも元は…」

「別にあんたのせいじゃあるまい。殺すのも殺されるのもそういう運命だ、って言葉は昔あんたがおれに言った台詞だぜ。悩むようなことじゃねえよ」

「わかってる。問題はこれからのことだ。リャンはもう使い物にならないかも知れない。虎が菜食主義を宣言したら死ぬだけだよ」

「一時的な後遺症とは思えないか」

「きっともうずっと、あのままだよ。おれには何となく解る。兄弟だからね」

「それなら堅気の仕事を捜せばいいのさ。もし出来るなら、その方がいい」

 病室で俯いている高木の姿が吉岡の脳裏に浮かんだ。リャンや高木に限らず入院した部下たち全員が退職することになるかも知れない、と思った。

 同時に、それならそれで仕方がないとも吉岡は思いながら。

「ところで吉岡さんが見たって言う“ノアの棺”についての報告書だけど、元ネタは病院のデータバンクにあるのかな」

「ああ。恐らく、あそこのレーザープリンターで打ち出されたものだ。机の上にあった別の書類の字体と同じだったからな」

「見たいね、是非」

「勝手に手に入れてくれ。おれは棺桶なんかに興味ない」

 チャンは意外そうな顔で吉岡を見た。

「吉岡さんにとっては、もうこれでお仕舞いかい。日本流に言えば、一件落着って事?それでいいの」

 吉岡は窓の外を横目で見ながら苦い笑みを浮かべた。

「そいつは時代劇の台詞だよ。まあ、取りあえず、ミラーがおれたちを騙そうとしていた訳じゃない事が解ったからな。奴が何を欲しがって何をしようが、おれには関係ない。ただ、新しいメンバーを捜さなけりゃならないかも知れないがな」

「そう。じゃあ、おれはおれで勝手に調べる事にするよ。いいね?」

 チャンは憤然となって宣言した。吉岡は無言で答えた。


 その翌日、高木宗一が自殺した。

 病室の窓から飛び降りて、首の骨を折って死んだ。



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