棺の記憶

著 : 中村 一朗

石郷:Vol.4


 目を開いた石郷の視界に最初に入って来たものは、赤黒い空の色だった。

 ひび割れて痩せた大地は起伏が激しく、灰色の枯れた草木が見渡す限りどこまでも続いている。風の死に絶えた大気には屍の怨臭が匂った。見渡す限りの荒涼とした心像風景の具現。石棺に葬られた精神〃核〃の認識世界。

-ミス・リョウコ。聞こえるか-

 意識に直接ミラーの〃声〃が響いてきた。

「ええ。不愉快なくらいはっきりとね」

 研究スタッフたちの操作する特殊な極超積分プログラムが〃棺〃の擬想空間に強制ゲートを穿っている。人の技術が出来ることはここまで。その先の接触は、他の精神に侵入する石郷の異能力に頼らざるを得ない。

 精神〃核〃の内部に侵入した石郷に接触することは不可能だった。高度の精神感応能力を持つ者を除いては。

-こちらはミス・リョウコの思考秩序をかすかに感応出来る程度だ。残念なが

 ら、わたしには君ほどの力はない。少しでも擬想空間の視覚認識を翻訳増幅

 してもらえると有り難いのだがね-

「そんな手間はゴメンよ。意識体の凝集だけでも面倒なんだから」

-私は君のスポンサーだ。多少の我が儘は聞いてもらいたい-

「知らないわ。お断り」

-私は是非そちらの世界を見てみたい、と言っているのだ。必要なら二割の追

 加料金を払ってもいい-

 石郷は笑い飛ばした。

「あんまりしつこいと、あなたの〃力〃を情報網に流すわよ。本当は、信者がもっとびっくりするような奇跡をたくさん起こせるって事。こうしてわたしと接触していること、そこのスタッフに伝えてしまおうかしら」

 ミラーの持つ特異能力については、技術スタッフのみならず信者の殆どに知られていない。神や奇跡を否定して道を説く教主の立場では、人間らしくあることが重要な演出であった。石郷はミラーの苛立ちを味わった。

-そんなことはきみにとり何のメリットにもならない。…了解した-

「じゃあ、そういうことで。これから前進する。先に障壁はないらしい。ここからは歩かなければならないみたいだから」

 石郷は歩き始めた。一歩進むごとに、数メートルの単位で景色が後方に流れ去って行く。更にその後ろには全てを飲み込もうとする闇が同じ速度で迫っている。つかず離れず、石郷の背を睨み据えるような意志を持つ暗黒。

 丘をひとつ越えると周囲の様相が変わり始めた。空は赤黒い斑模様を増し、薄緑色の霧が膝ほどの高さまで地表を覆い尽くしていた。それでも動くものの気配はない。揺らめくようにゆっくりと畝る緑の霧を除いては。

-どうした、ミス・リョウコ。意識に揺らぎが生じているようだが-

「覗き見はやめなさい。行儀が悪いわね、ミラーさん。擬想が変化してきた。寒々とした荒野と霧がとても美しい。赤と黒と緑と、灰色の世界…」

 楽しげに歌うような調子で石郷は言った。

-君の認識は非常に感傷的に思える。先日までの話し合いでは、決して見られ

 なかった傾向だ。大丈夫なのか-

「心配してくれてありがとう。ここは、居心地がいい。あら…」石郷は一度息を止めて、思春期の娘のようにクスクスと笑いながら。

「これをあなたにも見せてあげたい。いつの間にか、枯れ木がみんな腕や足になっちゃったわ」

 濃い霧が石郷をすっぽりと包んでから流れ去ると、地表をびっしりと覆っていた枯れ木は人の腕や足に変貌を遂げていた。

 大地から伸びているのは何千何万本もの死んだものたちの手足であった。青白く痩せ細った女や子どもの腕と、戦士や農夫のような赤銅色の逞しい腕。若い男女や老人の足。グロテスクな膿んだ傷口を見せているものもあれば、指がもぎ取られているものもある。

 人種や大きさもまちまちだった。人のものではない手足もそこここに認められた。小さいものは十センチにも満たないが、大きなものは石郷の背丈の倍以上もある巨人や魔物のそれであった。それでも大半は人間大であった。あるものは力なくだらりと手首を折り、あるものは拳を握り締めている。

 どれもが傷つけられて死んだ手足の群れ。

「これが蠢いていたらもっと不気味でしょうね。きっと、ジャンケンに勝たないと先に進めないのよ」

 石郷は笑いながら、目前にあった手ごろな長さの丈夫そうな『右足』をもぎ取った。足は膝関節のところで千切れた。その断面を覗き込む。微かな腐臭。だが腐敗はしていない。蠅がいないのだから当然だが、蛆がわくようでは折角の収集記念が損なわれてしまう。

「なるほど、良くできている。骨や腱も本物と同じだ」

 石郷は右足を放り出して歩き出した。手足の森を縫うように、一本道が彼方まで続いている。石郷の行く先を案内するように。

-十分に気をつけたまえ、ミス・リョウコ。そこは大勢の者たちを殺してきた

 精神呪場の中枢なのだ。何が襲ってきてもおかしくない-

 安否を気づかうというよりは、窘めるような調子でミラーが囁く。

「人間の精神〃核〃とは違うわ。寄生虫のような〃外傷〃や〃象徴〃は現れないと思う。ここの領主はしっかりと擬想を管理しているらしい」またクスクスと石郷が笑った。

「つまり、わたしに心を開いてくれてるってこと」

 不思議と心地よい酩酊感。高揚的な気分のまま、またひとつ丘を越えた。

 奇妙な森は続いていたが、手足の丈は徐々に低くなっていった。肘や膝はどれも地中にある。やがて下草のようになった手首と足首が突き出しているだけになってきた。未練を残して別れを告げているように。

「もうすぐ首が出てくる筈。この〃呪場〃が船員たちの心に影響を及ぼしたらしい。矢沢船長が作った血みどろのオブジェはここの贋作ね。やはり本物の方が美観はずっと上。地獄絵巻に相応しい。…ほら。手足の間に首が生えはじめて来た。残念だけど、もうすぐゴールイン」鼻歌気分で呟いているうちに気がついた。

「と言っても、ミラーさんはもう聞いていない」

 細々と接触していたミラーの意識が石郷の頭の中から消えていた。振り返るとすぐそばに闇がある。先を急げと囁くように。

「わかっている。早く行けばいいんでしょう」

 半透明の緑のヴェールを纏う荒れた灰色の原野を埋め尽くしているのは、バラバラの手足と、傷つけられた血みどろの生首の群れ。

 人種も異なるそれぞれの首に張りつく表情は、一様に虚ろな目の死に顔だった。その一方、明らかに拷問で破壊された顔もある。眼球を潰され、口を引き裂かれ、耳と鼻をそぎ落とされた一群の首が左手の一角を占めていた。

 苦悶の表情を残す彼らはまだ死んでから間もないようにさえ見えるが、兜の形状から中世のものである事が伺えた。

-…これらは皆、石棺に関わって死んでいった者たちの記憶なんだ-

 石郷の頭に直接声が響いた。ミラーとは異なるあどけない声。

「ここはまるで、首と手足で組み立てられた西瓜畑の模型」

 石郷が、独り言のような幼い声に答える。笑いかけるような調子で。それでいて決して白々しくない真摯な態度で。

-…西瓜畑。ぼくはまだ見たことがない。彼らの記憶にもなかった-

「別に見るまでもないわ。あそこの割れた頭なんか、西瓜よりもずっと趣があるくらい。…きっと、剣で両断されたのね」

 石郷が見上げる先に小高い丘があった。

 この擬想世界の中心点。その小さなスポットだけが黄金色の光に包まれている。石郷は幾万もの首を積んで築きあげられているその丘を上りはじめた。中腹に至るころには、頂部の眩しい空間を視界に捉える事ができた。

 そして、中央の椅子に座っている白く光る小さな影を認めた。清浄な光の周囲は金色の岩場で、中腹より上には首や手足はない。見回すと、その丘を暗黒のベールがすっぽりと包み込んでいる。石郷の歩いて来た跡も闇の中に。

 光と闇。赤と黒の空。肉体から離脱した意識と不滅の屍。決して融合しようとしない二つの極。それゆえこの空間は変わらない。生者と死者で描かれたようなそんな曼陀羅のコントラストを石郷はうっとりと感じ取る。

 丘の頂上にたどり着き、その中央の玉座に座るものに顔を向けた。

 少年と呼ぶ事さえ躊躇われるような年頃の人物。予想に反して、北欧系ではない。浅黒い肌と幼いながらも起伏にとんだくっきりした顔立ちはアラブ系の人種の特徴である。大きな目を輝かせて石郷をじっと見ている。

 そこに敵意は認められない。

-ここを気にいってくれた人は初めてだ。人間は皆、怯えるだけだから-

 口を開かずに少年が言った。

「少し、懐かしく思っただけ。あまり好きな景色じゃないわ」

-リョウコイシザト。それが名前なんでしょう-

「ええ。今はそう名乗っている。あなたは」

 少年は首を横に振った。

-名前はない、と思う。生まれてすぐにここに来てしまったから。生まれた時

 から体がなかったんだ。だからここにしかいられない。ここ、擬思空間て言

 うの?イシザトはそう呼んでいたみたいだけど-

「いいえ。ここはあなたの世界。幻でも夢でもない確かなもの。あなたにとっては、ここの外側が擬思世界になるの。わたしはただの訪問者。訪問者にとっては、ここは擬思空間になるけど」

-擬想空間…-

「思い願うことが具現化する、認識の影。その影から逆に形のあるものが生まれ出てくるもうひとつの現実。擬想はそのふたつを繋ぐ時間のこと。わたしたちはある程度の条件下でその時間を操ることができる」

 少年の顔が曇った。困惑と希望が瞳に浮かんでは消えて行く。

-よくわからないな-

「わからなくてもいい。それでもちゃんと生きていけるんだから」

-そうかな。…ねえ、イシザトは誰なの。ぼくの仲間?-

「ええ。あなたと同じ。住んでいる世界が違うだけ」

-他の人たちとは違うんだね-

「ええ。あなたの仲間は他にもいる。あまり多くはないけれど」

 暗黒のカーテンは丘の中腹にまで達していた。少年の目がそれをチラリと見る。寂しげな光をたたえて石郷に視線を戻した。

-もう時間がないみたいなんだ。ぼくにもイシザトたちの世界を訪ねることが

 出来るかな。今すぐは無理だってわかってるんだけど-

「ええ。準備が出来たら必ず迎えに来てあげる。約束するわ。少し時間がかかるかも知れないけど」

-いつまでも待つよ。ぼくは何千年もここにいる。ずっと眠りながら外の世界

 の時を数えてきた。時折目覚めて、少しだけ成長出来たりして…-

 少年の顔から表情が消え始めている。体から力が抜けてゆくのがわかった。

「夢さえ見ることのない眠り。…それもいいわね」

-ありがとう、イシザト。仲間がいたってわかっただけでも…-

 少年の体が消えてゆく。それに伴うように、金色の光も薄れ始めた。

「少しは大人を信じなさい。約束は必ず守るから。最後にひとつだけ教えて。あなたをここに連れてきたのは誰」

-…とうさん。ノアって名前…-

 少年の姿が玉座から消えると、石郷の周囲にも闇が押し寄せてきた。石郷は凝集を解きながら、無人の玉座に

「おやすみ」と呟いた。

 そして、帰還。本来の、肉のある世界へ。



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