棺の記憶

著 : 中村 一朗

石郷:Vol.1


 夜陰に吹く秋風には、潮の香りがあった。

 石郷涼子はウインドーを更に下げて、不吉な冷気を車内に導く。それで、身の内に疼く些細な興奮と高揚感をなだめようとした。

 目前を走る先行車は中型車両が一台。やや遅れて一キロほど後方から作戦用装備を搭載した同型のものが二台。石郷の操るフリーピース所有の4WDワゴン車以外の三台は、最新鋭軍用トラックを改造した特殊車両だった。

 四台の車両は闇に包まれた無人の山野を海に向かって疾走してゆく。

 一行は、市販車では走破不能な悪路の林道をハイペースで突き進んでいた。激しいリバウンドに悲鳴を上げるボディの軋みやサスペンションのつき上げをものともせず、石郷は前走車のテールライトを追って等間隔でついて行く。大きなギャップや岩は巧みに避け、小さいものはアクセルを開けてそのまま乗り越える。アクセル、ブレーキ、ステアリングの微妙な総合操作が、オフロードタイプとはいえ一般市販車での多目的特殊車両の追走を可能にしていた。

 軽い電子音と共にセンターコンソールに内蔵されたナビシステムのモニター上に、目的地の海岸に間もなく到着することが表示される。ほぼ同時に車載無線が着信音を発したが、石郷は無視した。ふいに、前を行くトラックが走行ペースをあげた。その加速に応じて、石郷は自動的に追従する。

 海岸が近づくにつれ、闇の密度は濃くなっていった。

 星々の光は黒い雲に包み隠されている。

 重車両の走行音とは不釣り合いな晩秋の夜。エンジンとヘッドライトを消して暗黒の抱擁を求めようとする己の中の衝動に気づいて、石郷は小さく唇を噛んだ。

 何かを期待して、肌がゾクリと震える様を意識した。

 やがて先行車はペースを落としながら、辺りの様子を伺うように砂浜に乗り入れた。ゆっくり停止すると、素早く下車した四人が周囲に散会する。

 助手席から降りたリーダー格の吉岡という男は彼らの動きを確認しながら車の前に立ち、双眼鏡で彼方の黒い水面を凝視している。

 石郷は二十メートル後方の林道出口付近で後続車を妨げぬように車を寄せて止めた。無線機のマイクを手にして本部のミラー・クリスを呼び出した。

「やあ、ミス・リョウコ。到着したようだね」

「今、海岸に着いたところ」

「先ほどコールしたのだが」

「ハンドルから手を離したくなかったから。運転中は携帯電話に触らないようにしている」

 ミラーが笑う。その声の片すみに細やかな毒気を感じた。

「それは律儀だな。携帯電話のルールとしては当然かも知れないが。ところで状況は」

「〃スネイク〃の先行チームが浜に降りました」

「そちらの雰囲気を知りたいな。ミス・リョウコの感じるままに、言葉で」

 石郷は少し考え、周囲の闇に視線を遊ばせながら口を開いた。

「輝くような夜になりそう、ってとこかしら」

「そちらの外気温は3度。曇り空の筈なんだがね」

 ナビシステムに組み込まれた車載センサーは〃フリーピース〃本部のシステムと直結している。検知したデータはダイレクト転送される。

「…、そう。正直な感想なんだけど」

 ミラーが再び低い声で笑った。

「くどいようだが、ミス・リョウコ。吉岡たちには君をオブザーバーと紹介してあるが、わたしの代理と思って振る舞ってもらって構わない。必要なら、直接彼らに指示を与えてくれ。彼らも納得している。不測の事態には君の判断を優先したい。連中を御すぐらいは君の能力でもできると思うが」

「人を動かすのが得意なのはミラーさんでしょう」

「ミス・リョウコは心の魔術師だと思っている。その点において、君は私よりも優秀だ。だから能力に見合う報酬を払っているつもりだが」

「人知れず、手段を選ばす。それでいて、結果への責任は私が引き受けなければならないってことかしら、ミラーさん?」

「刺のある言い回しだね。しかし、当たらずしも遠からぬ言葉と認めよう。とにかく今夜は、積み荷の回収を最優先にしたいのだよ。君の力に頼る事態になりそうだからね。輸送船との連絡は先日から途絶えたままだ」

「そんな場合になったら、報酬の割り増しを要求します。以上」

 石郷は、何かを言おうとしていたミラーを無視して一方的に無線を切った。車から降り、吉岡の背後から近づく。横に並んだ時、一瞬だけ吉岡は機械的に顔を向けたがすぐに双眼鏡に目を戻した。

 その視線が追う十数キロ先では、小型輸送船が波間に揺れる。

 石郷は意識の触手を伸ばして、肉眼では見えないその船の〃姿〃を捉えようとした。しかし、闇よりも深い影に覆われたような何かの存在が石郷の走査を拒否する。黒い障気が悪意となって獣の牙のように石郷の精神に襲いかかって来た。

(おもしろい…)

 悪意を軽くあしらいながら、石郷は思った。

 どうやら積み荷の力は確実に発現しているらしい。

 ほどなく後続車が到着し、乗員たちは手際よく荷台から装備を降ろして、三隻の大型ボートの組み立て作業にかかった。

 今夜の作戦の目的は、密輸船から積み荷を受け取ることにある。そのための実行部隊に、辣腕の傭兵集団として知られる吉岡清志の率いる〃スネイク〃が高額の報酬で雇われた。〃棺〃と呼ばれるその積み荷の正体は彼らには明かされていなかったが、所有権はすでにミラーにあるとだけは伝えられた。不測の事態が生じた場合は、手段を選ばず回収する。一切の痕跡を残さずに。動員数は〃スネイク〃のレギュラー十二名。オブザーバーの石郷は作戦に参加する十三人目の存在になる。ただし、これは表向きの話。

 ミラーは、吉岡たちに石郷を本部からのオブザーバーとして紹介した。積み荷の受取を確認するため、と。その時もまた今も、吉岡たちは石郷に対して無関心を装っている。実際、彼らは石郷にあまり関心などない。

 ミラーが強力な精神感応能力を持つ石郷に依頼した今日のオブザーブは、積み荷を受け取る際に〃スネイク〃のメンバーたちに何が起きるかを確認すること。彼らを囮のひとつにして、〃棺〃の謎を解くための手がかりを求めようとしている。それがミラーの真意ではないかと石郷は思っている。もちろん、無事に積み荷の確保ができることを前提に。

 吉岡たちは石郷の能力や本当のオブザーブの目的を知らない。必要に応じて石郷は彼らを助け、あるいはただ観察する。彼らに気づかれないように。これがミラーと石郷との密約だった。だが、石郷はミラーの言葉をそのまま信じているわけではなかった。他にも裏の駆け引きがありそうな予感がしていた。

 海の彼方と彼らの装備を交互に見ながら、石郷は吉岡に何らかの忠告をしておこうかとも考えたが、やめておいた。船の中で彼らを待つものの正体が掴めていない以上、不吉な予感を口にしても意味がない。仮に言ったところで、ペテン師と預言者を天秤にかけるような蔑んだ視線を向けられる結果になるだけだ。

 ボートの組立を終えると、吉岡たちは七キロ先に潜む密輸船に向かった。浜に残ったのは〃スネイク〃の四名と石郷。

 高速度で離れてゆくボートを目で追いながら、石郷は意識の一角に触れてきた船の悪意を捕らえて観察していた。首を押さえた蛇を見るように。

 その幻の蛇の中に自らの心の影を見つけて、石郷はスッと目を細める。相対する自己の記憶の一部を封印すると、その悪意は消滅した。

(…なるほどね)

 前方に淀む暗い海に目を向けた。あたりの闇はさらに深くなり、澱のように夜を包んでいる。屍をそのまま埋葬していた頃の古い墓地のように、人の不安をかき立てる根源的な死の幻影。その中心には、彼らの向かう船がある。

 浜に残った四人も、その海にたちこめる異様な雰囲気に感応して緊張を高めている。彼ら自身は気づいていないが、遠方に浮かぶ船から僅かながら影響を受けて過去のおぞましい思い出を刺激されていた。

 一方、船に接近しつつある吉岡たちはより強く影響を受け始めた。誰もが心に持つ深い傷。特に戦場での血みどろの記憶を宿す彼らの傷は決して癒えることはない。固く覆われたかたぶさの下では、腐った血膿が流れ出す時をいつも待っている。船に潜む悪意はそのかさぶたを剥そうとする鋭い鈎爪だった。干渉しようとする全てのものに対して、相応の憎悪を送り返してくる。

「…地獄の船…」

 口の中でそうつぶやいて、石郷涼子は小さく笑みを浮かべた。

 ワゴンに戻り、フロントガラス越しに闇を見据える。瞼を閉じ、そして船の潜む方向に思念の触角を伸ばした。一瞬にして広がる輝くような夜の息吹。肉の檻から解放された石郷の意識が雷光の疾さで暗黒と同調してゆく。

 再び石郷に向かってきた悪意の幻影をうち払い、船に取りついた十二人の存在を感知する。…いや、十三人…。なぜかひとり、増えている。

 そして船の中に、一人…もう一人…三人…四人。

 いや、違う。船の中にいる人間は一人だけだ。他の三つは、かつて人間だったものの残骸。間もなくそれに最後の一つが加わる。

 しかし少なくとも現状では、微弱なものの存在も数に入れれば十四の意識が船の周囲に集っていることになる。その他のものは意識の残り香のような、何か…。増幅された力を持つ、朧げな悪意と憎悪の思念残留。それらが融合して最外殻の精神障壁となり、船の中にある〃棺〃の核を守っているらしい。

 障気のような精神障壁が石郷の走査を妨げている。

 そのために鮮明な認識を得ることはできなかった。精神感応能力者の干渉を嫌う誰かの意志によるものなのか、あるいは古代にプログラムされた〃棺〃のガードシステムによるものなのか判じかねた。

 これ以上の情報を獲得するためには〃棺〃との直接接触を試みた方が良い。船まで跳ぶこともできるが、空間移動をすればミラーに自分の能力を知られることになる。同じ異能者同士でもミラーは石郷を格下の存在と判断している。ミラーの真意を図りかねる現状では、そう思わせておく方が都合がいい。

 どうせ、この半月のうちには〃棺〃の内部に潜む何かの存在と接触しなければならない。それが、石郷がミラーから依頼された本来の業務。石郷にとって今夜のオブザーブはそのための準備作業のようなものだった。

 石郷は傍観者に徹して状況の成り行きに任せることにした。

 恐怖に染められた人間の心は、暗闇を飛ぶ螢のように隙だらけで鮮明になる。彼らの精神波を追うくらいは障気の中でも比較的容易だった。作戦を遂行している傭兵たちの視聴覚と感性を通して、船の周囲とその中で何が起きているのか〃識る〃ことができる。必要なら、精神的ないしは物質的干渉も可能だ。

 心地よい邪気のうず巻く暗い浜辺に立って、石郷は意識の矛先を悪夢に翻弄されつつある彼らに向けた。

 予想以上に複雑な展開を見せているこの事態を、少しだけ楽しみながら。


 そして、ひとつの現実と、それに影を落としている十二の夢と認識の中へ。

 記憶は常に人の心に影を落とす。その影が強ければ、幻影は現実にすり替えられてゆく。陰惨な過去を持つ者ほど、そのタガが外れれば脆い。

 船に乗り込んだ十二人は、一様に怯えていた。自らに課す鋼鉄の規律は恐怖を抑制するための手段でもある。だがその自己制御にも限界があった。

 狂乱は彼らが最後の船倉を開けた直後に起きた。

 十二の視線がひとつの地獄絵を凝視する。そして十三番目の石郷の視線は、彼等の目が捉えたものの更にその奥にある記憶の中に向かっていった。

 積荷を囲むように配置された、規則性をもって並べられたバラバラの人体パーツ。その片隅にうずくまる男の精神は、それ以上にずたずたに切り刻まれていた。男は運び屋グループのボスだった。既に人格は崩れ去り、幼い頃から心の暗部でずっと彼を苛んできた悪夢が死にかけた肉体を支配していた。それは、人が人を食うことへの恐怖。棺の力によってその恐怖に飲み込まれたとき、彼は被害者よりも加害者になることを決意した。

 魂を食われる前に、人肉を食うこと。

 そしてその時から、密輸屋は狂気の坂を転がり落ちていったことを石郷は理解した。

 突然、廃人と化した男が己の指を食い続けている光景に、メンバーのひとりの精神が弾けた。彼はアフリカでの傭兵時代、政府軍に捕らえられた時に仲間に加えられた残虐な拷問の光景をそれに重ねて見ていた。拷問を受けたのは反政府軍の士官。彼はそれを見ることを強要された。士官は全裸にされ、鉄の椅子に縛りつけられた。十分毎にペンチで潰されては切り取られる戦友の指。傷口は塩漬けにされ、手の指がなくなると次は足の指。足の指がなくなると、次は…

 怒りから絶望へ。そして恐怖へ。絶叫の記憶が錐のように彼の脳裏を貫く。五時間後、耐え切れなくなった仲間の一人が口を割った。所属部隊の移動日時と目標地点をしゃべってしまった。裏切り行為であるにもかかわらず、彼は安堵した。しかし本当に安堵したのはその直後のこと。意識のない、無残な姿にされた士官が敵の手で射殺された時のこと。彼は親しかったその士官の死を望んだ。故郷で恋人が待つという友人の死を、心から。

 …早く!…早く!

 誰かの声が彼の頭の中で囁いている。

 早く楽にしてやれ。おまえも楽になるはずだ、と。

 いつも、同じだ。今も、昔も。そうだ、と男は歯を剥き出して確信する。あの時の望みを、皆が望むことをここでも叶えるのだ。

 彼は銃口を男に向ける。

「よせ!李」と誰かが叫んだが、彼の動きは止まらない。

 軽快な自動小銃の連続発射音と閃光。小刻みな反動が安らぎをくれる。

 一連射を終えると、彼の意識を空白が支配した。うつろな船倉の中に仲間たちの顔が浮かぶ。死んだはずの昔の仲間の顔も認められた。その中には、あの士官もいた。指のない手足から血を滴らせながら、士官は無表情のままじっと彼を見つめていた。船倉は以前よりも少しずつ明るく、静かになっていた。そしてゆっくりと虚無が心を支配していく。

 どれほど時が経過したのか彼にはわからなかった。ふいに部屋が再び暗くなり、気がつけば船倉に散らばる木片を見ていた。顔を上げると、銃口から硝煙を立ち上らせている吉岡の強い視線があった。

 やがて二十分後、彼らは船を離れる。船は爆破され、海底に消えた。


 多少の差こそあれ、傭兵たちを錯乱させた幻影は似たようなものだった。

 例外は吉岡である。彼が守る記憶の器の中に宿していたものが〃棺〃の力によって活性化したらしい。結果的に、それが彼らを救うことになった。

 石郷は戻ってきた彼らを海岸で出迎えた。

 ボートから上陸した吉岡の背後に透明な女の姿があった。女は険しい目で石郷を見詰めて、吉岡を包むように抱きしめる。

(…この人を傷つけないで…)

 石郷は吉岡をちらりと見て、薄い笑みを浮かべた。

 亡霊の意志など眼中にないが、彼女の幽体化が少なくとも二三名のメンバーの命を救ったことになる。お陰で石郷としては余計な手間をかけずに済んだ。

 亡霊と約束をする酔狂なつもりはなかったが、せめてもの代償として吉岡と彼女の過去を詮索しない事にした。

 石郷は踵を返して車に戻った。



top
解説