棺の記憶

著 : 中村 一朗

石郷:Vol.5


「擬想空間でわたしに接触してきた時、ほんの少しだけミラーさんの心に残像が見えた。〃黄金の玉座〃への強い期待。これも〃ノアの棺〃の報告書にあった項目だから覚えていた。打ち合わせでは、あれほど強く否定していたのに。最初は疑っただけだったけど、丘の上で同じものを見た時に確信したわ。ミラーさんが何かを目論んでいるって事」

 ミラーが石郷をじっと見つめている。古道具の値踏みをするように。

「酷いな。覗き屋は君の方じゃないか。疑惑だけでわたしを擬想空間に置き去りにした訳か」

「ミラーさんには、わたしを非難する資格はない」

「今はね。しかし、あの時はまだあったと思うよ」

「永遠に出られなくなる訳じゃないでしょう。精神〃核〃が眠りにつけば、どうせ弾き出されたわ。それに、どうやら自力で脱出してきたようだし」

「運がよかったのさ。その点についてはミスター吉岡に感謝している。だが、危なく迷ってしまうところだった。きみが急に立ち止まって、消えたから」

 石郷は静かな冷笑を浮かべた。

「意識の一部を切り離して、もぎ取った『右足』に貼りつけて本体の気配を絶ったのよ。随分簡単に引っかかったわね。お陰で彼とゆっくり話ができた」

 ミラーの瞳がギラリと光った。石郷が〃彼〃と言った瞬間に。

「なるほど。そんな技があるって事も覚えておこう。ところでミス・イシザトは、わたしが何を目論んでいたと思うんだ」

「白々しい。『玉座は主を逃がさない』って、報告書にはそう記されていた。だから、身代わりが必要だったのよ。同時に、強力な意識体が馮依出来る肉体も。…わたしを玉座に座らせて、彼をここに異界牽引するつもりだったんでしょう。つまり、わたしを身代わりに精神〃核〃をこの世界に連れてくる事。それが、わたしを雇った本当の目的だったというわけ」

 少しの間、沈黙が流れた。石郷はじっとミラーの次の反応を伺っている。

「ほんの一時だけのことだ。必要なことを聞き出したら、またミス・イシザトと交代して貰うつもりだった。彼の世界は向こうなのだから」

「へえ。何年後に。それとも何十年後の話かしらね。〃ノアの棺〃を活性化させるだけのために四人を殺したくせに」

 ミラーは両手を大きく開いて見せた。気障な手つきが妙にさまになる。

「再起動なら心配いらない。開封呪文はもう記録済みだから、起動素子は不要だ。最外殻障壁は、幸いミス・イシザトが消去してくれたしね」

「それを聞いて、安心した」

 石郷が独り言のように呟いた。ミラーにはその意味がわからず、小首を傾げるように笑いかけた。困った時の滑稽な笑みだった。そしてミラーは開いた手を顔の前で組み合わせながら肘をついた。芝居じみた仕草だった。

「報酬は二割増しにしよう。答えてほしいな。あの中で、ミス・イシザトはノアに会ったのか。あるいは、ノアだったものに」

「いいえ。居たのは別のもの…」

「誰だったんだね」

「名前はないらしい。無意識や本能を持たない純粋な人格…」

「それはどういう意味だ」

「知りたければ、自分で聞きに行けばいい」

 ミラーの瞳は紫から更に赤く染まっていった。光彩の形がスッと細くなり、肉食獣の殺意を両眼に宿して燃え上がる。

「脅すつもりはないが、情報網に正体を流されて困るのは君も同じだろう。本当の石郷涼子は八年前の爆破テロで死亡。石郷涼子の名を騙る人物は、実は別人である、などというミステリーはわたしの胸にしまっておきたいんだが」

「…そうね。胸にしまって貰おうかしら」

「賢い相手は話が早くていい。おっと、気を悪くしないでくれ」

「今夜は満月だったわね。じゃあ、きっと大丈夫」

 石郷の澄んだ微笑がミラーの困惑を招いている。そして彼女の視線がミラーの顔から胸元へと下りて行った。

「…お土産はそれがいい。少しだけ死んで貰うわ」

「ミス・イシザト。いったい、何を…!」

 ミラーの防衛本能が警報を発する。しかし遅かった。

 石郷の肩がわずかに動いた次の瞬間、その右腕が閃光の速さでミラーの胸に伸びた。獲物を狙うカメレオンの舌のように。先端の指はメスの鋭さを持つ鈎爪に変貌を遂げ、胸筋と肋骨を瞬時に切り裂いて胸の中に沈んだ。己の血しぶきにミラーの目が驚愕に見開かれる。苦痛を感じる暇さえあたえなかった。

 ミラーの視線が、抉り出された己の心臓が体から離れて行く様を最後に捉えている。石郷の右腕はすぐに人間の形状に戻ったが、その掌には血管を引きちぎられたミラーの心臓が載っていた。

 それでもミラーの心臓は胎児のようにピクピクと動き続けている。

「胸に風穴が開いた気分はどう?ミラーさん。それとも、胸が痛む?」

 ミラーはすでに意識はない。

 心臓を失った体がグラリと傾いた。顔をデスクの縁に打ちつけながらズルズルと床に崩れ落ちてゆく。死の痙攣に手足を震わせながら。

 石郷は落ち着いた動作で心臓を床に置くと、バッグを開けてペットボトル大の透明プラスチックケースを取り出した。研究棟の生体実験室から無断で拝借してきたものだった。ケースの中は培養液が満たされている。

 蓋を開け、ミラーの心臓を収納して再び閉める。

 石郷は椅子に座ってその収集品を観察した。鮮血で濁りながらも、ケース内の心臓はまだ逞しく動き続けている。それどころか、培養液から滋養を得て活性化し、毛細血管が再生し始めていた。五分後には千切れて触手のように揺らめいていた動脈と動脈が繋がり、ささやかな循環系を確立していった。

 更に五分後。デスクの反対側で、ゴトリと音がした。

 靴の踵が床に当たる小さな音。続いてズルズルという、濡れた重い袋を引きずるような音。やがて椅子に血染めの手がかかり、ミラーが荒い息を吐きながら身を起こした。大きく見開かれた両眼は白目までも血塗られたように真っ赤だった。悪鬼の形相で石郷に肉食獣の牙を剥いていた。

「良かった」と、石郷は呟いた。顔色ひとつ変えないで。

「あんまり遅いから、蘇生しないかと思った」

 ミラーは胸を押さえて、倒れるようにデスクの椅子に身を預けた。

「酷い…。本当になんてことを、するんだ…」

 ミラーは胸に左手を当てたまま、荒い息を繰り返していた。胸の傷口はもう塞がっていた。石郷はその有様をじっと観察して、ミラーの体内で新しい心臓がすでに再生していることを確認した。ただしその大きさは、まだ半分程度。

「〃盗んだ心臓を返してくれ〃、なんて言わないでね」

 皮肉な口調で石郷が笑う。野獣のようなミラーの視線が、叱りつけられた子どものように急に弱々しいものに変わっていった。

 ある程度の理性が復活した証しだった。

「アルマーニのスーツがズタズタだ。特注だったのに…」

 負け惜しみのようにミラーが呻いた。

 ミラーは何が起きたのか確認するように周囲に目をやり、最初に大量の血液を失っていることを確認していた。そしてデスクの反対側に置かれているケースの中のものを目にして、石郷に不安そうな表情を向けた。

 それが自分の心臓だと気づくまで暫くかかった。

 その信じ難い現実を受け止めてから、掠れた声で問いかけた。

「その私の心臓をどうするつもりかね」

「育てるのよ」

 石郷はあっさりと答えた。本能と理性がまだ分離状態のミラーの虚ろな視線は、重度のアルコール中毒者のように虚空を彷徨っている。

「わたしの心臓を…育てる、だと」

 ミラーの視線はデスクの上のガラスケースに注がれていた。正確には、その培養液の中でピクピクと蠢いている肉の塊に向かって。

「うまく調整すれば、一年ぐらいで子どもの体を創れるわ。そうしたら、これに彼を憑依させるの。きっと良い器になる。彼が教えてくれれば、ミラーさんの望みも来年の秋には叶えられるかも知れない」

 石郷は自分の計画を率直に解説した。お互いのためだとでも言うように。

 ミラーの表情が困惑から驚愕にゆっくりと変わっていく様子を、石郷はじっと観察していた。実験動物の反応を見る冷徹な科学者のように。

 ミラーはようやく石郷の意図することを知った。

「なんてことを。もし途中で悪霊にでも取り憑かれたら、どうするつもりだ。満月の私の心臓を使っているんだぞ。万一の場合は、考え得る最悪の魔獣が誕生してしまう」

「それはまた別の問題。これ、ミラーさんの台詞だったわね。大丈夫よ。わたしが最外殻障壁を築くんだから。それに、失敗したら焼き殺せばいい」

 憎悪と嫌悪で顔色を朱に染めて、ミラーは石郷を凝視している。

 一方の石郷はそれまでと同様にミラーの反応を観察していた。改めて力を誇示するつもりはない。どちらが上かは双方がすでに了解していることだった。

 やがてミラーは肩を落とした。

「わかった。好きにしてくれ。一年後を楽しみにしている」

 石郷は心臓を納めたケースをバッグに収めた。

 退室する直前に床と壁を濡らした夥しい血を擬想操作で一掃する。愕然とするミラーに義理だけの会釈を残して、石郷は執務室の扉を後ろ手に閉めた。

 その刹那、石郷は骸のような吉岡を一瞥した。

 常人であれば死んでいる深手だった。このまま死んでくれた方が、ミラーのみならず自分にとっても都合がいいことはわかっていた。僅かな逡巡の後、石郷は吉岡の肉体を彼の記憶に垣間見えた座標に転移させた。

 必要最低限の傷の治癒だけ施して。

 その一瞬、薄幸の生涯を送ったメイランという女の生前の姿が脳裏に浮かんだ。少女の面影を残した明るい笑み。吉岡の記憶か、或いは彼女のものか区別のつかない温かな感情の疼きを意識した。

 運があれば、吉岡は生き残る。生存確率は五分程度。仮に死んでも、メイランの霊体と融合して〃怪〃がひとつ、この世界に生まれるだけのことだ。

 石郷はそれ以上のことを敢えて思慮しようとはしなかった。

 今の石郷の関心はバッグの中の心臓に向いている。人間の姿形に作り上げるまで、どこで、どのように育てようか。いずれミラーたちの追撃も始まるだろう。心臓がミラーの細胞である限り、どこに隠そうともミラーは容易にその座標を見つけ出すことができる。その捜査網をどうすり抜けるか。

 生体への成長まで、約一年。少なくとも退屈はない。

 石郷は周囲の時空位相に思念を拡散させて連続性に歪みを導き出した。その時空隙に自らの肉体と精神を同調させる。そして時間軸の主流から支流へ…


 一切の痕跡を残さずに、石郷涼子はこの世界から姿を消した。



<石郷の章・終>



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